詩編 24:1-10 「まことの王が来られる」
詩編24に関しては、印象深かった説教集があります。エバハルト・ユンゲルの『第一説教集』です。ご承知のように、かつてドイツは東西に分かれていました。いわゆる「ベルリンの壁」と呼ばれる隔ての中垣があったのです。ユンゲルはこの壁のブランデンブルク門を通る王として主のイメージを解釈しました。ブランデンブルク門は、当時の東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」の象徴的な意味を持たされています。当時にこの門はコンクリートで塗り固められており、通り抜けることが不可能であったのです。この通り抜け不可能な門を堂々とやってくる主、神の姿、それが栄光に輝く主なのだという仕方で、この世に対して介入してくるイエス・キリストの神の姿であるというイメージを提供してくれているのです。
この王のイメージをクリスマスの主イエス・キリストに見たいと思います。順説として読むと、戦争の勝利の凱旋を神に感謝する栄光の王の姿となります。しかし、逆説として読むべきではないでしょうか。主イエス・キリストがエルサレムに入られたとき、軍馬ではなくて、荷物を運ぶことくらいしかできず、ささげものにもできないロバの子を用いられました。
この王の姿とは、ロバの子にまたがる平和の主なのです。平和の主としての王である方をわたしたちはクリスマスに向かって迎える準備をしているのです。主イエスは、平和の主としての「まことの王」としてこの世に来られた。それは正しいものを招くためではなくて、罪人を招く仕方で来られたのです。より弱い立場におかれたものをこそ、仲間とし友とするためです。神であることをやめずに独り子として来られたのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)
イエスという名前はヨシュアから来ています。神は救う、という意味です。その中身がインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」というのです。
主イエス・キリストの神は、わたしたちのもとに「まことの王」として来られました。そして、やがて来られる日、来臨の日に向かってわたしたちは歩んでいます。来臨への希望の象徴として、わたしたちは毎年クリスマス、幼な子主イエスが飼い葉桶に来てくださったことに対して感謝をもって迎えるわけです。
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