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2016年11月

2016年11月27日 (日)

詩編 24:1-10 「まことの王が来られる」

 詩編24に関しては、印象深かった説教集があります。エバハルト・ユンゲルの『第一説教集』です。ご承知のように、かつてドイツは東西に分かれていました。いわゆる「ベルリンの壁」と呼ばれる隔ての中垣があったのです。ユンゲルはこの壁のブランデンブルク門を通る王として主のイメージを解釈しました。ブランデンブルク門は、当時の東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」の象徴的な意味を持たされています。当時にこの門はコンクリートで塗り固められており、通り抜けることが不可能であったのです。この通り抜け不可能な門を堂々とやってくる主、神の姿、それが栄光に輝く主なのだという仕方で、この世に対して介入してくるイエス・キリストの神の姿であるというイメージを提供してくれているのです。
 この王のイメージをクリスマスの主イエス・キリストに見たいと思います。順説として読むと、戦争の勝利の凱旋を神に感謝する栄光の王の姿となります。しかし、逆説として読むべきではないでしょうか。主イエス・キリストがエルサレムに入られたとき、軍馬ではなくて、荷物を運ぶことくらいしかできず、ささげものにもできないロバの子を用いられました。
 この王の姿とは、ロバの子にまたがる平和の主なのです。平和の主としての王である方をわたしたちはクリスマスに向かって迎える準備をしているのです。主イエスは、平和の主としての「まことの王」としてこの世に来られた。それは正しいものを招くためではなくて、罪人を招く仕方で来られたのです。より弱い立場におかれたものをこそ、仲間とし友とするためです。神であることをやめずに独り子として来られたのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)
 イエスという名前はヨシュアから来ています。神は救う、という意味です。その中身がインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」というのです。
 主イエス・キリストの神は、わたしたちのもとに「まことの王」として来られました。そして、やがて来られる日、来臨の日に向かってわたしたちは歩んでいます。来臨への希望の象徴として、わたしたちは毎年クリスマス、幼な子主イエスが飼い葉桶に来てくださったことに対して感謝をもって迎えるわけです。

2016年11月20日 (日)

申命記 24章19~22節 「収穫感謝の道理」

                        ~収穫感謝~

 農業に従事していないわたしたちが「収穫を感謝する」ことはできるのだろうか、この素朴な疑問からスタートしたいと思います。
 今日の聖書は、現代社会でセイフティーネットと言われるものの原初の形を神が定めた掟として示しています。収穫にあたって、取りつくしてはならないことを示しているのです。取りこぼす仕方で社会的弱者を救済する目的を、神の意志として示すのです。「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」(24:18)というエジプトでの奴隷の経験から、今日の申命記のテキストの前後には「寄留者」、いわゆる外国人をも含む立場の弱い人々への配慮を忘れないことが明確に記されている点は重要です。
 今日食べるべきパンの切なさを主イエス・キリストは知っていたことは、大勢の人たちに奇跡によって分け与えた記事を思い起こせば分かることです(ルカ11:14などを参照)。
 また、「主の祈り」にあるように、主イエスは今日食べるパンを求めての祈りを教えています。さらに、被差別者との食事のあり方とは、隔ての壁を打ち破りながら、一緒に食べることによって、いのちを喜び合う方向を示すものです。マルコ福音書2章でのレビの家での食卓の場面はそうです。【イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:13-17)】
 農業に従事していない住宅地の教会のわたしたちが収穫感謝を祝うことは、分かち合いの決意を新たにしていくことであろうと思われます。このような招きのもとに申命記の記事をイエス・キリストから照らし出すことによって収穫感謝の方向性が示されているのです。

2016年11月13日 (日)

イザヤ書 11章6節 「導くのは子ども」

~子ども祝福礼拝~

 「おとなしい」という言葉は、元々は「おとな」から来ていて、「おとならしい」ということのようです。態度などが穏やかで、騒いだりしない静かな感じでしょうか?「おとなしい」の反対の言葉は、「こどもしい」となるのですが、ほとんど使われません。今日は、「こどもしい」について一緒に考えたいと思います。それは、イエスの望んでいる人間のあり方とも関係があるからです。「こどもしい」という言葉があるなら、その意味は、「荒い」とか「荒々しい」です。今日は、いい意味で使います。「こどもしい」をイメージしやすいように、モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』という絵本を手掛かりにして、考えてみたいと思います。
 マックスという子どもが、狼の着ぐるみを着て大暴れして遊んでいると、お母さんに夕飯抜きで自室に追いやられてしまいます。さらに暴れていると、いつの間にか部屋は森になり海になり、舟で旅して「かいじゅうたちのいるところ」へ。
 マックスには「荒々しさ」が隠されています。その荒々しさは、狼の着ぐるみに表わされています。狼の恰好をしたら、中身も狼のようになってしまった、マックスの中の狼のような部分が出てきたと言ってもいいかもしれません。「かいじゅうたちのいるところ」に着いたマックスは、怖くて乱暴な怪獣たちを飼いならすようにして王様になり、一緒に踊って遊びます。怪獣の乱暴さを子どもの心で静かにさせるのです。そして、最後、温かい夕食のある自分の部屋に戻ってきます。
 この物語は、マックスの成長物語と読めます。狼の着ぐるみによって怪獣の世界に近づき、そこで子どもらしい「荒々しさ」を発散することによって、安らかな心へと向かう道を示している、と。「荒々しさ」とうまく向き合い、心の中で自由にすることによって、「荒々しさ」という簡単にはコントロールできない乱暴な力が、平和へと向かうたくましさに変えられるのです。心を開いて生きる道を示しているのです。
 平和ということは、難しいのですが、まずは自分の心との付き合い方から始めることが必要なのだということでしょう。
 今日の聖書では、「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」と語られています。狼、豹、若獅子(子ライオン)という獰猛な動物と子羊、子山羊、子牛という弱い動物との共存できる世界を導くのが小さい子供だというイメージは、マックスが、怪獣たちと一緒に踊ることを通して、荒々しさから安らかさへと転じていく過程と重なります。
 そして、この聖書で語られている小さな子どもの姿は、子どもを祝福するイエスの姿と対になり、誕生物語の言葉をも思い出させるものです。【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(マタイ1:23)。このように「導くのは子ども」というテーマが展開されているのです。

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