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2016年10月

2016年10月30日 (日)

ガラテヤの信徒への手紙 6章15節 「新しく創造される」

~「キリスト教教育週間」を覚えて~
 アフリカの東側にある国ケニアの首都であるナイロビで、子どもたちの教育を支援しているコイノニア教育センターについて紙芝居を通して教えられました。
 どこの国でもそうですが、都市と呼ばれる大きな町の周りには、その華やかさの影の部分としてのスラムと呼ばれる貧しい人たちが集まって暮らす地域が作られます。色々な難しい問題が数多く起こりやすい環境となっています。
 社会が不安定なときに、最も大きな被害を受けるのはより弱い立場の人たちです。特に子どもたちです。そのために教育のもつ課題は大きいのです。子どもたちは、働かなくても生活が安全に守られ、兵隊になることもなく、精神的にも肉体的にも虐待されないで、毎日を喜んでワクワクしながら生きていくための権利が保障されなくてはなりません。教育の大きな目的は、これから生き、成長していくための手助けです。大切なのは、これから自分たちがどのように、考え、生きていくための基礎を養うことです。心の中に「どうして」「何故」という問いを育てていきながら、一つ一つを考え学ぶ中で今までの自分をより良い方向へと向かわせる力が教育にはあるからです。小さな子どもたちは言葉が話せるようになると、「どうして」「何故」という質問を、おとながうんざりするほど繰り返します。実は、この「どうして」という気持ちをどれだけ育てていけるかが大切だということと教育が大切だということはつながっているのです。「どうして」という疑問をもちながら、いつか分かるようになるまで勉強したり、考え続けていく基礎があるからです。
 社会をよい方向に変えていく力を教育は持っています。だからこそ、不安定で歪んだ社会や世界に生きていくためには、これから生き抜く知恵としての教育が求められているのです。
 主イエスは、このような教育の意味が分かっていたと思うのです。主イエスは、「共に生きていく」ということを何よりも大切にされました。共に生きていくためには、相手のことや自分のことを分かる必要があります。そのための道具として教育は大切なのです。教育によって、お互いの<いのち>をどうしたら大切にできるかを考え、学び、祈っていく道があることを確かめることが大切なのです。そうすれば、きっと何かが良い方向へと変わっていく、そのように信じていくこと。そのために、教育を分かち合っていく。
 そんな中で主イエスの守りに支えられて、仕えていくようになっていくことを信じることができるようになるのです。そうすれば、教育ということによって、新しい仕方で、みんなが喜んでワクワクしながら暮らせる世界がやってくることを信じることができるようになるのです。これが、「新しく創造される」あり方なのです。

2016年10月23日 (日)

マルコによる福音書 14章43~52節 「逃亡者たちは」

 裏切った弟子たちの姿は非常に無様です。しかし、積極的に読むならば、弟子たちは自らイエスを裏切り、また敵前から逃亡したという記憶を決して忘れないで、それでもなお前進していこうという、成長していこうとする姿を読み取ることができるかもしれません。旧約聖書のコヘレトの言葉にあるように、すべてには「時」があります。イエス・キリストの復活の約束に支えられて、この「時」のただ中で一人前の自立した人間として成長していく道があることを今一度確認すべきだろうと思われます。
 北欧に伝わる『三匹のヤギのがらがらどん』という昔話には三匹のヤギが登場します。それぞれがみんな「がらがらどん」という名前で、大中小と体の大きさで違いが表わされています。ヤギたちは、あるとき草を食べようと山に登ってきました。太ろう、大きくなろうという思いが発端です。途中の谷川に橋があり、そこを渡らなければなりません。橋の下にはトロルという魔物がいます。怖がりながらも三匹は、小・中・大の順に渡ります。小は、自分はこんなに小さいから食べないで、と逃げ切ります。中は、少し待てばもっと美味しい大きいヤギが来ると逃げ切ります。そして、大は、トロルと戦い、やっつけます。
 この話を松居友は『昔話とこころの自立』(宝島社)で読み解きます。谷川を渡って山に登るというのは象徴的な意味で言うと、新しい自分になっていくとか成長です。小・中・大の三匹のヤギは、それぞれ幼年期・少年期・青年期、すなわち一人の子どもの成長過程の象徴です。谷川に潜むトロルは若者が成長して一人前の自立した人間になっていくときに阻もうとする悪魔的な力を表わしています。小と中はトロルとの決戦を後延ばしにし、大きい三匹目のヤギはトロルを木っ端みじんにして谷底に突き落としてしまう、つまり立ちはだかる壁を壊したのです。
 自らが直面していると見える課題であっても、先延ばしにしても良い場合がある。逃げてもいい。ただ守りの中で成長し、その「時」が来たならば、正面から課題に対して立ち向かっていく、ということもできるのです。弟子たちは、かつてのイエスを見捨てて逃げ去ったという事実を心に深く刻みながら、そしてその痛みを背負いながらも、いやむしろ逃げたからからこそ、かもしれません。復活における主の守りのうちに「時」を与えられ、課題に対して立ち向かっていく、自立していく、一人前になっていく、という道筋へと導かれていったのです。
 わたしたちが立ち向かうべき課題、解決しなければならない問題は色々あると思います。それが、今正面から立ち向かうべきことなのか、それとももう少し待って時間をかけるのか、あるいは一旦逃げていいのか、そういう判断をその時々に応じて行っていかないと、トロルあるいは悪霊に飲み込まれてしまうような事態に陥るのではないでしょうか。そのような「時」の見極めを行うようにとの導きが今日の聖書には語られているのです。

マルコによる福音書 14章53~65節 「イエスは黙り続け」

 イエス・キリストは、ご自身に罪がないにもかかわらず、すべての人の根源的な罪を身代わりとして代理として担ってくださって、いわば贖ってくださったという基本的な理解を手放さないことは大切なことです。
 イエスは明らかに犯罪者です。驚かれる方があるかもしれませんが、犯罪者であるかどうかを決めるのは権力なのです。まずユダヤ教の予備裁判において神殿破壊と神の子と名乗ったとされる点から神を冒涜するものとされました。本当は同意する者がいなければ有罪にはならないのですが、聖書ではいなかったとされていますから、最初から死刑が確定していて、それを正当化するための裁判であるといえます。ローマの側での本裁判では、嫌々だった可能性は否定できませんが、「ユダヤ人の王」という捨て札からすればイエスはローマに反逆する政治犯です。そのように処刑されたのです。ユダヤ教では木に翔けられた者は呪われる、ローマの理解では非常におぞましく耐えられない、口にするのも憚られるような死刑方法なのです。見せしめの意味合いもあります。そのような意味において主イエスは、宗教的には神を冒涜する者として死刑判決がユダヤ教の側から与えられ、政治的にはローマに反逆する政治犯として、です。
 「イエスは民衆の側からすると罪はない」と言うべきです。権力はイエスを犯罪者に仕立て上げたのです。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(3:6)ヘロデ派というのは、代官のヘロデを中心にローマ寄りの者です。ファリサイ派はユダヤ教の主流派と言っていいでしょう。本来敵対するこれらが手を組んだのです。お互いの利害の一致があるのです。では、イエスは何をしたのか。3章5節以前に遡って読めば、1:21-3:5は癒しの物語、汚れた霊を追い出す物語、さらには、断食問題と安息日問題であり、律法違反(安息日に癒しを行った)となります。
 イエスは裁判を受けます。証言に賛同する者はいません。「ためにする」裁判だからです。だから、イエスは黙り続けたのです(この姿はイザヤ53章を参照)。イエスの予備審問におけるあり方はイザヤ書53>章の苦難の僕の記事だけではなくて、それを受けてフィリピの信徒への手紙には、従順についてのパウロの理解が示されています(フィリピ2:1-11を参照)。イエス・キリストの裁判における従順な姿とは、それぞれ与えられているすべての命があるがままで神に祝福され、尊いのだということを取り戻すために主イエス・キリストは従順の道を歩まれた。その従順が今日の最高法院での裁判において表わされているのです。このようにして主イエス・キリストが守り抜こうとされたのは、傷ついた、そして傷つけられた、尊厳を奪われた、その人たち一人ひとりの命の尊さ、かけがえのなさなのです。それを貫かれた主イエス・キリストは今ここに。

2016年10月17日 (月)

ルカ3:4-6「荒れ野で叫ぶ声」中島幸人神学生(農村伝道神学校3年)

 みなさん、おはようございます。本日の聖書箇所はルカによる福音書3章4節から6節になります。秋が近づき、季節の変わり目を自覚するこのごろ、皆さんはどうお過ごしでしょうか。私の現在住んでいる町田市野津田の農村伝道神学校では、そろそろ夜に虫の音が聞こえ始めました。そこは東京都でもいまだに緑が残る地帯であり、時には雉やハクビシンなども姿を見せます。私が長野から越してきたときはどのようなアスファルトの町に住むのかと不安でしたが、意外にも故郷と同じような緑の環境であり、ほっとしたものです。私の故郷は幼いころ、夜になると蛙の合唱が聞こえました。しかし最近ではその声も遠のきました。近くにあった田んぼが、いつに間にか畑に変わっていたのです。減反政策の影響だったのでしょう。野津田のあたりでも緑が押しつぶされて競技場が立ち、農村伝道神学校やその付近で反対運動がありました。いまもさらにスポーツ関係の施設を作るために自然をつぶしてゆこうと再開発の計画を練っていると聞きます。その確かに存在したはずの叫ぶ者たちの声を無視して。大きな流れと大きな声が支配する時、そこにあった小さな声はなかったことにされてしまうのでしょう。
 本日の聖書箇所であるルカにおいて、荒れ野で呼ぶ声、とは何だったのでしょうか。誰の声だったのでしょうか。これはその時代にあって小さくされた誰か、いつの時代にも存在する言葉を発することのできない誰かを指すのではないでしょうか。それぞれの耳に届く「声」があり、声を発する「誰か」がいます。主イエスもまた、そうした声を聞いたのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは荒野で叫ぶ声の一つとなりました。しかしヨハネは7章14節以下で、主イエスの行動に疑問を投げかけてもいます。ヨハネには聞き取れない声を、主エスは聞き取っていました。教会は大勢の人が集まる場所であり、違う大きさ、違う速さの声で語る人たちがいることでしょう。マシンガンのように互いの言葉をぶつけ合う人もいれば、静かに互いの言葉を交換して耳を傾けている人もいることでしょう。それぞれの耳、それぞれのにしか聞こえない小さき声があるのではないでしょうか。この箇所は旧約聖書のイザヤ書からの引用であると言われています。原典を見てみると新約旧約のどちらでも二人称複数、つまり「あなたたちに」語られています。つまり聖書を読み、御言葉を聞こうとする「私たち」です。今を生きる私たちもまた、誰もが気付かない声を聞き、主の道へと導かれているのではないでしょうか。

2016年10月 2日 (日)

マルコによる福音書 14章32~42節 「これこそが祈り」

 主イエスのゲッセマネの園での祈りの姿は、いわば「期待されるキリスト像」としての祈りには読めません。どちらかというと無様な、惨めで弱々しく見えるような姿で祈っているのです。わたしは死ぬほど苦しい、できることならこの苦しみは避けたい、嫌だと祈るのです。堂々とした立派な姿ではいないのです。アバ(父よ)と祈り、杯である苦しみを取り去ってほしいと生身の姿をさらけ出して祈るのです。
 ここで神はどうしていたのでしょうか?沈黙しています。アバ(お父ちゃん)が、受け止めてくださる方がすぐ傍にいるということを前提とした祈りだからです。この沈黙は、耐え忍べと冷たく突き放したのではなく、神は、この沈黙によって歩んでいく方向性としての一つの答えを与えているのです。後半の祈り「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と転じていくところに向かってです。沈黙しているところの神の「御心」にあえて委ねていくという決意に導かれていくのです。
 神は沈黙によって主イエスの道を支えたのです。神は主イエス・キリストをその祈りにおいて確実に受け止めてくださったからです。自分が丸裸にされていくような、そのような祈りを主イエス・キリストはただ自分のために祈ったのではありません。この主イエスの祈りとは、そのような意味において神は沈黙しているし、弟子たちは眠ってしまう、という孤立無援で孤独な祈りであったかもしれません。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:46)という祈りは、実は主イエスの中で自己完結するのではなくて、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(13:37)という仕方で、わたしたちもこのような祈りへと導かれていく可能性へと開かれているのです。「心は燃えても、肉体は弱い」(14:38)わたしたちの弱ささえをも包み込んでしまうように、共感する仕方ですべての人のために祈ってくださっているのです。神にしか解決できない、神のみが聞き届けてくださるような事柄を、主イエスご自身が代理として担ってくださって神に祈っているのです。わたしたちの執り成しをなさってくださっているのです。
 この主イエスの祈りがあるからこそ、わたしたちは率直に自分の今置かれている苦しみや悲しみや嘆き、痛みや病を「主イエス・キリストの御名によって」祈ることが赦されているのです。今日も主イエスは祈り続けてくださっていることを信じることを信じて歩むことができるのです。

マルコによる福音書 14章27~31節 「人間の破れから」

 ペトロを代表とする弟子たちはイエスから権威が委託されている事実はあります(3:13-19)。しかし、受難予告の前後には弟子たちは無理解に陥っていることが顕著に描かれています(8:27-30、9:2-8、9:18-29、9:33-37、10:13-16、10:35-45など)。破れがあるのです。【イエスは弟子たちに言われた。あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。(14:27)】とのイメージは、【イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(6:34)】につながります。一皮むけば、そこにいる群衆と同じ「飼い主のいない羊のような有様」にしかすぎない存在であることが明らかにされてしまうということです。自分たちがイエスに招かれているという特権をもっていると勘違いし、自分たちには付加価値が与えられているかのような錯覚に陥っているけれど、実は、破れが露わにされてしまっているのです。イエスは弟子たちの剥き出しの<いのち>を晒すのです。
 イエスは、どのように取り繕ったとしても、被っている仮面を外すことで生身の姿を剥き出しにする方であることをキチンと思い知れというのではないでしょうか。ところがペトロはイエスの指摘に納得できないのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:29)と。それに対してイエスは「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(14: 30)と言うのです。そのように自らが剥き出しにされ、裸である者であることを拒否する、イエス・キリストを神として認めない生き方をしているのではないか、と自己検証することを今日の聖書から求められているのではないでしょうか。
 しかし、ただ単にペトロを代表する弟子たちが断罪され、全く無力な生身の人間の破れのまま捨て置かれるのか、というと「そうではない」ことが、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」( 14:28)という言葉から分かります。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16:7)が先取りされることによっての赦しの約束があるからです。
 教会に連なる一人ひとりは、やはりペトロなのです。そのような破れをもった、剥き出しの生身の姿が強制的に相対化されるからこそ、もうすでにガリラヤにおけるイエスと再会していく赦しの道が用意されているのです。そのままの、あるがままの姿で自分の場所に帰っていけば、守られてしまっている場に押し出されているのだということを今一度確認いたしましょう。剥き出しにされ、破れが露わにされてしまっているその人のまるごとの<いのち>全体が肯定される。今生かされてあることが祝福されているのだから。

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