マルコによる福音書 14章53~65節 「イエスは黙り続け」
イエス・キリストは、ご自身に罪がないにもかかわらず、すべての人の根源的な罪を身代わりとして代理として担ってくださって、いわば贖ってくださったという基本的な理解を手放さないことは大切なことです。
イエスは明らかに犯罪者です。驚かれる方があるかもしれませんが、犯罪者であるかどうかを決めるのは権力なのです。まずユダヤ教の予備裁判において神殿破壊と神の子と名乗ったとされる点から神を冒涜するものとされました。本当は同意する者がいなければ有罪にはならないのですが、聖書ではいなかったとされていますから、最初から死刑が確定していて、それを正当化するための裁判であるといえます。ローマの側での本裁判では、嫌々だった可能性は否定できませんが、「ユダヤ人の王」という捨て札からすればイエスはローマに反逆する政治犯です。そのように処刑されたのです。ユダヤ教では木に翔けられた者は呪われる、ローマの理解では非常におぞましく耐えられない、口にするのも憚られるような死刑方法なのです。見せしめの意味合いもあります。そのような意味において主イエスは、宗教的には神を冒涜する者として死刑判決がユダヤ教の側から与えられ、政治的にはローマに反逆する政治犯として、です。
「イエスは民衆の側からすると罪はない」と言うべきです。権力はイエスを犯罪者に仕立て上げたのです。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(3:6)ヘロデ派というのは、代官のヘロデを中心にローマ寄りの者です。ファリサイ派はユダヤ教の主流派と言っていいでしょう。本来敵対するこれらが手を組んだのです。お互いの利害の一致があるのです。では、イエスは何をしたのか。3章5節以前に遡って読めば、1:21-3:5は癒しの物語、汚れた霊を追い出す物語、さらには、断食問題と安息日問題であり、律法違反(安息日に癒しを行った)となります。
イエスは裁判を受けます。証言に賛同する者はいません。「ためにする」裁判だからです。だから、イエスは黙り続けたのです(この姿はイザヤ53章を参照)。イエスの予備審問におけるあり方はイザヤ書53>章の苦難の僕の記事だけではなくて、それを受けてフィリピの信徒への手紙には、従順についてのパウロの理解が示されています(フィリピ2:1-11を参照)。イエス・キリストの裁判における従順な姿とは、それぞれ与えられているすべての命があるがままで神に祝福され、尊いのだということを取り戻すために主イエス・キリストは従順の道を歩まれた。その従順が今日の最高法院での裁判において表わされているのです。このようにして主イエス・キリストが守り抜こうとされたのは、傷ついた、そして傷つけられた、尊厳を奪われた、その人たち一人ひとりの命の尊さ、かけがえのなさなのです。それを貫かれた主イエス・キリストは今ここに。
« ルカ3:4-6「荒れ野で叫ぶ声」中島幸人神学生(農村伝道神学校3年) | トップページ | マルコによる福音書 14章43~52節 「逃亡者たちは」 »
「マルコによる福音書」カテゴリの記事
- マルコによる福音書 16章1~8節 「いのちを肯定する力」(2024.03.31)
- マルコによる福音書 12章28~34節 「受容の受容」(2024.01.28)
- マルコによる福音書 2章21~22節 「醸し出せ!いのち」(2024.01.14)
- マルコによる福音書 15章6~15節 「十字架の苦しみ」(2023.07.02)
- マルコによる福音書 2章1~12節 「ともだちっていいな」(2023.06.11)
« ルカ3:4-6「荒れ野で叫ぶ声」中島幸人神学生(農村伝道神学校3年) | トップページ | マルコによる福音書 14章43~52節 「逃亡者たちは」 »
コメント