マルコによる福音書 14章43~52節 「逃亡者たちは」
裏切った弟子たちの姿は非常に無様です。しかし、積極的に読むならば、弟子たちは自らイエスを裏切り、また敵前から逃亡したという記憶を決して忘れないで、それでもなお前進していこうという、成長していこうとする姿を読み取ることができるかもしれません。旧約聖書のコヘレトの言葉にあるように、すべてには「時」があります。イエス・キリストの復活の約束に支えられて、この「時」のただ中で一人前の自立した人間として成長していく道があることを今一度確認すべきだろうと思われます。
北欧に伝わる『三匹のヤギのがらがらどん』という昔話には三匹のヤギが登場します。それぞれがみんな「がらがらどん」という名前で、大中小と体の大きさで違いが表わされています。ヤギたちは、あるとき草を食べようと山に登ってきました。太ろう、大きくなろうという思いが発端です。途中の谷川に橋があり、そこを渡らなければなりません。橋の下にはトロルという魔物がいます。怖がりながらも三匹は、小・中・大の順に渡ります。小は、自分はこんなに小さいから食べないで、と逃げ切ります。中は、少し待てばもっと美味しい大きいヤギが来ると逃げ切ります。そして、大は、トロルと戦い、やっつけます。
この話を松居友は『昔話とこころの自立』(宝島社)で読み解きます。谷川を渡って山に登るというのは象徴的な意味で言うと、新しい自分になっていくとか成長です。小・中・大の三匹のヤギは、それぞれ幼年期・少年期・青年期、すなわち一人の子どもの成長過程の象徴です。谷川に潜むトロルは若者が成長して一人前の自立した人間になっていくときに阻もうとする悪魔的な力を表わしています。小と中はトロルとの決戦を後延ばしにし、大きい三匹目のヤギはトロルを木っ端みじんにして谷底に突き落としてしまう、つまり立ちはだかる壁を壊したのです。
自らが直面していると見える課題であっても、先延ばしにしても良い場合がある。逃げてもいい。ただ守りの中で成長し、その「時」が来たならば、正面から課題に対して立ち向かっていく、ということもできるのです。弟子たちは、かつてのイエスを見捨てて逃げ去ったという事実を心に深く刻みながら、そしてその痛みを背負いながらも、いやむしろ逃げたからからこそ、かもしれません。復活における主の守りのうちに「時」を与えられ、課題に対して立ち向かっていく、自立していく、一人前になっていく、という道筋へと導かれていったのです。
わたしたちが立ち向かうべき課題、解決しなければならない問題は色々あると思います。それが、今正面から立ち向かうべきことなのか、それとももう少し待って時間をかけるのか、あるいは一旦逃げていいのか、そういう判断をその時々に応じて行っていかないと、トロルあるいは悪霊に飲み込まれてしまうような事態に陥るのではないでしょうか。そのような「時」の見極めを行うようにとの導きが今日の聖書には語られているのです。
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