マルコによる福音書 14章32~42節 「これこそが祈り」
主イエスのゲッセマネの園での祈りの姿は、いわば「期待されるキリスト像」としての祈りには読めません。どちらかというと無様な、惨めで弱々しく見えるような姿で祈っているのです。わたしは死ぬほど苦しい、できることならこの苦しみは避けたい、嫌だと祈るのです。堂々とした立派な姿ではいないのです。アバ(父よ)と祈り、杯である苦しみを取り去ってほしいと生身の姿をさらけ出して祈るのです。
ここで神はどうしていたのでしょうか?沈黙しています。アバ(お父ちゃん)が、受け止めてくださる方がすぐ傍にいるということを前提とした祈りだからです。この沈黙は、耐え忍べと冷たく突き放したのではなく、神は、この沈黙によって歩んでいく方向性としての一つの答えを与えているのです。後半の祈り「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と転じていくところに向かってです。沈黙しているところの神の「御心」にあえて委ねていくという決意に導かれていくのです。
神は沈黙によって主イエスの道を支えたのです。神は主イエス・キリストをその祈りにおいて確実に受け止めてくださったからです。自分が丸裸にされていくような、そのような祈りを主イエス・キリストはただ自分のために祈ったのではありません。この主イエスの祈りとは、そのような意味において神は沈黙しているし、弟子たちは眠ってしまう、という孤立無援で孤独な祈りであったかもしれません。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:46)という祈りは、実は主イエスの中で自己完結するのではなくて、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(13:37)という仕方で、わたしたちもこのような祈りへと導かれていく可能性へと開かれているのです。「心は燃えても、肉体は弱い」(14:38)わたしたちの弱ささえをも包み込んでしまうように、共感する仕方ですべての人のために祈ってくださっているのです。神にしか解決できない、神のみが聞き届けてくださるような事柄を、主イエスご自身が代理として担ってくださって神に祈っているのです。わたしたちの執り成しをなさってくださっているのです。
この主イエスの祈りがあるからこそ、わたしたちは率直に自分の今置かれている苦しみや悲しみや嘆き、痛みや病を「主イエス・キリストの御名によって」祈ることが赦されているのです。今日も主イエスは祈り続けてくださっていることを信じることを信じて歩むことができるのです。
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