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2016年9月

2016年9月27日 (火)

コリントの信徒への手紙二 4章16~18節 「日々新たにされて」

 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2:7)とあるように、鼻に命の息を吹き入れられた、すなわち<いのち>を神が貸し与えられたことによって、人は生きる者となったのです。人間というのは、絶えず受動的に命が与えられてしまっているということです。
 その受動性を踏まえてでしょうか、パウロは「光あれ」(創1:3)との言葉を受け入れながら「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリ4:6と告白しています。神からの光が土の器であるわたしたちに向かって注がれることによって、わたしたちは生きる者とされています。自分の<いのち>は元々自分の持ち物ではなくて、神ご自身から貸し与えられているものなのだから、その限りある時間の中で感謝をもって過ごしているのです。だからこそ、どのような艱難や苦労、苦難、試みがあったとしても、それ自ら引き受けていくという勇気と希望、平安があるのです。基本的なところでは神に任せていくという楽天性によってパウロは支えられていたということです。このあり方から学んでいくならば、16節のように「わたしたちは落胆しません」と言い切れるのです。この「外なる人」は生まれた時から、もうすでに老いに向かって、また死に向かって歩んでいくようにと道が備えられているのですから。
 上村静は次のように書いています。【およそいかなる人もこの世に一人だけであり、すべての個人は「特殊」である。しかし、それが人である限り、すべての人に「普遍」は内在する。人は死すべき定めにあるがゆえに「相対」であるが、まさにそれゆえにその唯一の<いのち>には「絶対的な価値」がある。「生かされている<いのち>とは、一方で被造物が受動態の存在であること、すなわち存在の相対性を、他方ではそれが「生かされている」存在であること、すなわち「絶対的な」価値を有する者として肯定されていること、この人間存在の相対性と絶対性を同時に表現しているのである。「いのち」がなければ「死」はありえず、また「死」がなければ「生きる」必要がない。あらゆる被造物は、その<いのち>が先に与えられている。生かされてしまって在る。あらゆる<いのち>の存在肯定の絶対根拠は、このすでに生かされてしまって在るという事実にある。」】人は死ぬべきものではあるけれども、そのような意味では相対的なもの、それぞれが貸し与えられている命というのは一人ひとりに絶対的な価値があるということです。そのままで生かされている<いのち>というのは、死すべきものではあるけれど肯定されてしまっている、神によって良しとされているということです。ここに立っていくならば、わたしたちは今生かされてあるということを喜んで感謝しつつ、「日々新たにされて」生かされている途上にあることを知るのです。

2016年9月19日 (月)

マルコによる福音書 14章22~26節 「主の晩餐」

 今日の聖書は、聖餐式の起源の一つとされているところです。一つのパンは一人のイエス・キリストを象徴的に表わします。そして、ブドウ酒が入れられた一つの杯。これらを分け与ることによって、一つとされるイメージがあります。
 過ぎ越しというのはエジプトからの脱出(=奴隷の民からの解放)とやがて来るべきメシアの饗宴において挟まれている今というところに祝われていたものです。これを乗り越える意味でキリスト教会は、聖餐式を執り行います。かつて主イエスがなさったところの食卓の業と、やがて来るべき日に至るキリストとの宴会の間にある漲る今、キリストの命の非常に強い象徴としてパンとブドウ液を共に味わうことによって、キリストに従うものへと招かれていることを確認するという、そういう儀式でもあります。最後の晩餐として有名なこの場面は、これまでの主の食卓の総決算として読まれるべきです。
 ですから、マルコの文脈で14:22-26だけを切り離しては読めません。たとえば、6:30-44の記事に【イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。】(6:41)とあります。この形も主イエスの賛美、感謝、祝福の祈りと食べ物を分かつ働きは、その祈りにおいて分かち合って食べていく姿というものが、過ぎ越しから主の晩餐につながってくる流れがあるのです。そして、その招かれている者たちとは誰なのか、ということに関しては2章で語られています(2:13-17参照)。
 主イエスの招きというのは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とあります。「正しい人」は、口語訳の「義人」の方が正確な訳です。つまり、律法順守の義人ではなく、当時のユダヤ教の律法を守れない、守らないので不浄の民であるとされた「罪人」をこそ招く、そのような食卓を主イエスは用意するのだということです。
 イエス・キリストの生き方を受け入れるのかどうか、ということです。主イエス・キリストの道、それが一つのパンであり、杯であるわけです。主イエス・キリストの杯に与るということは、その苦しみに与ると同時に、その恵みとしての命にも与るということです。
 食卓は閉ざされた人たちによってなされるものではなく、誰もが、とりわけ、貧しいもの、飢えているもの、泣いているものに向かって差し出されている。主の晩餐とは、主イエス・キリストがここに臨んでおられるのだとの招きなのです。

2016年9月11日 (日)

マルコによる福音書 14章12~21節 「まさかわたしのことでは」

 人間関係の中で色々なトラブルが起こります。そんな時、わたしたちは誰が悪いのかと犯人捜しをすることが少なくありません。そのようにして犯人の役割一切がイスカリオテのユダに与えられているように思われるのです。それはちょうど「100匹の羊」のたとえ話のように、1というスケープゴートを作り出すことによって99が安定できるような関係性を求めていく仕組みがあるからです。今日の聖書には、それを乗り越えていく道へのヒントが語られているのではないでしょうか。
 10節からザッと読んでしまうと、ユダという大変な裏切り者がいて、その者は生まれなかった方がよかったのだと読み勝ちです。けれども、18節と19節に焦点を絞って読んでいくと、必ずしもユダだけを悪者にするのではなくて、他の弟子たちもユダと大差ないのです。
 最後の晩餐で、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(14:18)と、自分を引き渡そうとしていると指摘します。
 そこで、【弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた】(14:19)。
 もちろん、思い当たる節があったのでしょう。弟子たちの無理解は、主イエスが三度にわたる受難予告の前後にまとわりついているのですから(受難予告前後の文脈を読まれたし)。
 本当にわたしたちは、主イエスに対して相応しく誠実であったのだろうか、という反省とか内省の言葉が「まさかわたしのことでは」ではないでしょうか。これを、わたしは弟子たちの正直な言葉として、一つの信仰告白に近いものとして受け止めるのも一つの読みであろうと思います。「まさかわたしのことでは」自分で自分を疑ってみることによって、一つの相対化が起こりうるという可能性を、ここでは示しているのではないでしょうか。
 この主イエスは弟子たちから導き出した「まさかわたしのことでは」のように、自分の言葉で自分が口に出すことによって、(わたしの)罪が外在化され対象化されます。それによって自分が正されていく可能性に開かれていくのです。
 自分の中にユダ的なるものが含まれていると認めながら、エゴイズムを乗り越えていく可能性を主イエスは引き出してくださるのです。そこに委ねていけばわたしたちの関係性は整えられ、エゴイズムから解放され自由になっていく招きの途上にあることが知らされるのです。

2016年9月 6日 (火)

マルコによる福音書 14章10~11節 「ユダは救われるのか?」

 ユダは誰であったのか?それはイエスの主だった弟子の12人の一人であり、使徒であり、イエスの活動を担う中心的なメンバーであったことは確かなことです。マルコ3:13以降で12人の選びがあります。田川健三訳では13節【彼自身の望む者を呼び寄せる】19節【イエスを引き渡したのである】とあります。19節を新共同訳では、「裏切ったのである」としていますが、文脈を正しく読むためには田川訳「引き渡す」が分かりやすい。ユダの罪はイエスを引き渡したということです。権力に引き渡しを行ったことにおいて罪がある。そのような役割を与えられてしまっているのです。
 この逆を生きたのはパウロです。彼は非常に熱心なファリサイ派の活動家で、キリスト教徒を敵視していました。キリスト教徒がいると聞けば、あちこちの街に出掛けていって、捕まえて権力に引き渡すことをしていたのです。
 【ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。】(使徒9:2)ここでの「連行」とは、引き渡すということです。パウロは、キリスト者を捕まえては引き渡していたのです。【ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」】(使徒9:3-5)
 これをきっかけにパウロは、サウロから変えられていったのです。引き渡す者から、イエスを宣教するものへと。イスカリオテのユダというのは、道を踏み外した人間であって、イエスに対して罪を犯した人間であることは否定できませんが、10章あたりに集中する弟子批判からすると、罪がすべてユダに集約させられている感はあります。しかし、最初の弟子の招きにおいて「彼自身の望む者を呼び寄せる」、「これと思う人々」をイエス・キリストが呼び寄せていることにおいて招き自体は継続していると判断できます。
 イエス・キリストの三度にわたる受難予告での「引き渡される」という言葉が鍵になります。主イエス・キリストご自身は自らすべての人の罪の贖いとなったのです。この主イエスの意思によって、ユダが引き渡す、そしてパウロがかつてキリスト者を引き渡す、これらの引き渡しを引き受ける仕方で主イエスは自らを引き渡す道を歩んだと読むことができるはずです。
 主イエス自らが引き渡しを行うことによって、身を献げる愛によって、かつてのパウロの行いも赦される。そして、三度にわたってイエスのことを知らないといったペトロの罪も赦される。であれば、当然イエスを引き渡したユダは赦される。このような意味でユダは彼岸において救われるのです。

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