コリントの信徒への手紙二 4章16~18節 「日々新たにされて」
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2:7)とあるように、鼻に命の息を吹き入れられた、すなわち<いのち>を神が貸し与えられたことによって、人は生きる者となったのです。人間というのは、絶えず受動的に命が与えられてしまっているということです。
その受動性を踏まえてでしょうか、パウロは「光あれ」(創1:3)との言葉を受け入れながら「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリ4:6と告白しています。神からの光が土の器であるわたしたちに向かって注がれることによって、わたしたちは生きる者とされています。自分の<いのち>は元々自分の持ち物ではなくて、神ご自身から貸し与えられているものなのだから、その限りある時間の中で感謝をもって過ごしているのです。だからこそ、どのような艱難や苦労、苦難、試みがあったとしても、それ自ら引き受けていくという勇気と希望、平安があるのです。基本的なところでは神に任せていくという楽天性によってパウロは支えられていたということです。このあり方から学んでいくならば、16節のように「わたしたちは落胆しません」と言い切れるのです。この「外なる人」は生まれた時から、もうすでに老いに向かって、また死に向かって歩んでいくようにと道が備えられているのですから。
上村静は次のように書いています。【およそいかなる人もこの世に一人だけであり、すべての個人は「特殊」である。しかし、それが人である限り、すべての人に「普遍」は内在する。人は死すべき定めにあるがゆえに「相対」であるが、まさにそれゆえにその唯一の<いのち>には「絶対的な価値」がある。「生かされている<いのち>とは、一方で被造物が受動態の存在であること、すなわち存在の相対性を、他方ではそれが「生かされている」存在であること、すなわち「絶対的な」価値を有する者として肯定されていること、この人間存在の相対性と絶対性を同時に表現しているのである。「いのち」がなければ「死」はありえず、また「死」がなければ「生きる」必要がない。あらゆる被造物は、その<いのち>が先に与えられている。生かされてしまって在る。あらゆる<いのち>の存在肯定の絶対根拠は、このすでに生かされてしまって在るという事実にある。」】人は死ぬべきものではあるけれども、そのような意味では相対的なもの、それぞれが貸し与えられている命というのは一人ひとりに絶対的な価値があるということです。そのままで生かされている<いのち>というのは、死すべきものではあるけれど肯定されてしまっている、神によって良しとされているということです。ここに立っていくならば、わたしたちは今生かされてあるということを喜んで感謝しつつ、「日々新たにされて」生かされている途上にあることを知るのです。
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