マルコによる福音書 14章22~26節 「主の晩餐」
今日の聖書は、聖餐式の起源の一つとされているところです。一つのパンは一人のイエス・キリストを象徴的に表わします。そして、ブドウ酒が入れられた一つの杯。これらを分け与ることによって、一つとされるイメージがあります。
過ぎ越しというのはエジプトからの脱出(=奴隷の民からの解放)とやがて来るべきメシアの饗宴において挟まれている今というところに祝われていたものです。これを乗り越える意味でキリスト教会は、聖餐式を執り行います。かつて主イエスがなさったところの食卓の業と、やがて来るべき日に至るキリストとの宴会の間にある漲る今、キリストの命の非常に強い象徴としてパンとブドウ液を共に味わうことによって、キリストに従うものへと招かれていることを確認するという、そういう儀式でもあります。最後の晩餐として有名なこの場面は、これまでの主の食卓の総決算として読まれるべきです。
ですから、マルコの文脈で14:22-26だけを切り離しては読めません。たとえば、6:30-44の記事に【イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。】(6:41)とあります。この形も主イエスの賛美、感謝、祝福の祈りと食べ物を分かつ働きは、その祈りにおいて分かち合って食べていく姿というものが、過ぎ越しから主の晩餐につながってくる流れがあるのです。そして、その招かれている者たちとは誰なのか、ということに関しては2章で語られています(2:13-17参照)。
主イエスの招きというのは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とあります。「正しい人」は、口語訳の「義人」の方が正確な訳です。つまり、律法順守の義人ではなく、当時のユダヤ教の律法を守れない、守らないので不浄の民であるとされた「罪人」をこそ招く、そのような食卓を主イエスは用意するのだということです。
イエス・キリストの生き方を受け入れるのかどうか、ということです。主イエス・キリストの道、それが一つのパンであり、杯であるわけです。主イエス・キリストの杯に与るということは、その苦しみに与ると同時に、その恵みとしての命にも与るということです。
食卓は閉ざされた人たちによってなされるものではなく、誰もが、とりわけ、貧しいもの、飢えているもの、泣いているものに向かって差し出されている。主の晩餐とは、主イエス・キリストがここに臨んでおられるのだとの招きなのです。
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