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2016年9月11日 (日)

マルコによる福音書 14章12~21節 「まさかわたしのことでは」

 人間関係の中で色々なトラブルが起こります。そんな時、わたしたちは誰が悪いのかと犯人捜しをすることが少なくありません。そのようにして犯人の役割一切がイスカリオテのユダに与えられているように思われるのです。それはちょうど「100匹の羊」のたとえ話のように、1というスケープゴートを作り出すことによって99が安定できるような関係性を求めていく仕組みがあるからです。今日の聖書には、それを乗り越えていく道へのヒントが語られているのではないでしょうか。
 10節からザッと読んでしまうと、ユダという大変な裏切り者がいて、その者は生まれなかった方がよかったのだと読み勝ちです。けれども、18節と19節に焦点を絞って読んでいくと、必ずしもユダだけを悪者にするのではなくて、他の弟子たちもユダと大差ないのです。
 最後の晩餐で、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(14:18)と、自分を引き渡そうとしていると指摘します。
 そこで、【弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた】(14:19)。
 もちろん、思い当たる節があったのでしょう。弟子たちの無理解は、主イエスが三度にわたる受難予告の前後にまとわりついているのですから(受難予告前後の文脈を読まれたし)。
 本当にわたしたちは、主イエスに対して相応しく誠実であったのだろうか、という反省とか内省の言葉が「まさかわたしのことでは」ではないでしょうか。これを、わたしは弟子たちの正直な言葉として、一つの信仰告白に近いものとして受け止めるのも一つの読みであろうと思います。「まさかわたしのことでは」自分で自分を疑ってみることによって、一つの相対化が起こりうるという可能性を、ここでは示しているのではないでしょうか。
 この主イエスは弟子たちから導き出した「まさかわたしのことでは」のように、自分の言葉で自分が口に出すことによって、(わたしの)罪が外在化され対象化されます。それによって自分が正されていく可能性に開かれていくのです。
 自分の中にユダ的なるものが含まれていると認めながら、エゴイズムを乗り越えていく可能性を主イエスは引き出してくださるのです。そこに委ねていけばわたしたちの関係性は整えられ、エゴイズムから解放され自由になっていく招きの途上にあることが知らされるのです。

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