マルコによる福音書 14章10~11節 「ユダは救われるのか?」
ユダは誰であったのか?それはイエスの主だった弟子の12人の一人であり、使徒であり、イエスの活動を担う中心的なメンバーであったことは確かなことです。マルコ3:13以降で12人の選びがあります。田川健三訳では13節【彼自身の望む者を呼び寄せる】19節【イエスを引き渡したのである】とあります。19節を新共同訳では、「裏切ったのである」としていますが、文脈を正しく読むためには田川訳「引き渡す」が分かりやすい。ユダの罪はイエスを引き渡したということです。権力に引き渡しを行ったことにおいて罪がある。そのような役割を与えられてしまっているのです。
この逆を生きたのはパウロです。彼は非常に熱心なファリサイ派の活動家で、キリスト教徒を敵視していました。キリスト教徒がいると聞けば、あちこちの街に出掛けていって、捕まえて権力に引き渡すことをしていたのです。
【ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。】(使徒9:2)ここでの「連行」とは、引き渡すということです。パウロは、キリスト者を捕まえては引き渡していたのです。【ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」】(使徒9:3-5)
これをきっかけにパウロは、サウロから変えられていったのです。引き渡す者から、イエスを宣教するものへと。イスカリオテのユダというのは、道を踏み外した人間であって、イエスに対して罪を犯した人間であることは否定できませんが、10章あたりに集中する弟子批判からすると、罪がすべてユダに集約させられている感はあります。しかし、最初の弟子の招きにおいて「彼自身の望む者を呼び寄せる」、「これと思う人々」をイエス・キリストが呼び寄せていることにおいて招き自体は継続していると判断できます。
イエス・キリストの三度にわたる受難予告での「引き渡される」という言葉が鍵になります。主イエス・キリストご自身は自らすべての人の罪の贖いとなったのです。この主イエスの意思によって、ユダが引き渡す、そしてパウロがかつてキリスト者を引き渡す、これらの引き渡しを引き受ける仕方で主イエスは自らを引き渡す道を歩んだと読むことができるはずです。
主イエス自らが引き渡しを行うことによって、身を献げる愛によって、かつてのパウロの行いも赦される。そして、三度にわたってイエスのことを知らないといったペトロの罪も赦される。であれば、当然イエスを引き渡したユダは赦される。このような意味でユダは彼岸において救われるのです。
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