« 2016年7月 | トップページ | 2016年9月 »

2016年8月

2016年8月29日 (月)

「平和を実現する人々」・マタイによる福音書5:9・ローマの信徒への手紙8:14-16 植田善嗣

 聖書を2か所読んでいただきましたが、どちらも「神の子」について、語られています。マタイ5:9【平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。】ロマ書8:14【神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。】と記されています。
 私たちキリスト者は、主イエスの十字架によってすべての罪が贖われ、私たちの心と体は神の宮、聖霊の宮とされ、神の聖霊によって生きるものとなり「神の子」とされたのです。つまり、私たちは主イエスによって、主の平和を実現するための召命を受けているということになると思います。ここで、主の平和について、聖書から学んでおきたいと思います。エフェソの信徒への手紙2:14-17
 こうして、【十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。】との主の平和の福音を目の前にしてみますと、先ほど述べたような「主の平和を実現するための召命を受けている」などと軽々しくは言えないのではないかとの思いに駆られます。このような時、思い起こすのは出エジプト記のモーセです。
 「イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」という神からの召命を受けたのです。しかし、モーセは様々な理由を見つけ「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わし下さい。」と拒否し、神はモーセに対し、怒りを発したと記されています。それでも神はモーセに言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
 私たちもモーセのように「無理です、誰かほかの人を」と言いたくなります。しかし、私たちは主イエスの十字架によって「神の子」として新しい命に生きるものとされています。その主が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とお言葉を掛けてくださるのです。私のうちには主の召命に応える力は皆無ですが、このお言葉のみに信頼を置き、祈りをもって主イエスに従う以外に選択肢は残されていないということです。
 私たちは礼拝の最後に派遣のお言葉をお聞きします。主は言われる。「わたしはだれをつかわすべきか。だれがわたしと共にいくだろうか。」この主のお言葉「だれがわたしと共にいくだろうか。」を心の奥底に留めておきたいと思います。私たちはただ一人で、この世に派遣されていくのではなく、主が共に歩んでくださるとのお言葉を聞いているのです。感謝と喜びと信頼とをもって「ここに私がおります。私を遣わしてください。」とお応えして、この世の現場に送り出されていく私たちでありたいと願うものです。

2016年8月14日 (日)

マルコによる福音書 14:章3~9節 「こころが共鳴する時」

 1~2節ではイエス殺害の計画が具体化しつつあり、10節からはユダの裏切りの記事があり、これらに挟まれた、不穏な空気に満ちている場面です。イエスがいつ捕えられてもおかしくない状態です。そのような中、現代の感覚からすれば300万円相当の高価な香油を食事の席でイエスの頭に注いだ女性の話です。無駄遣いという批判と同時に、そもそもおそろしく不快な状況だったでしょう。しかし、この女性は、あるいはこの女性のみがイエスの十字架への道行きに対して、しっかりと目を留め、イエスの苦しみの道に共鳴する心に引き出された行為だったのでしょう。平和の王としての即位と埋葬の出来事の象徴を「あなたはこのような方なのだ」との信仰告白です。イエスとの苦しみにおける共鳴を感じた人は、他の人に理解できなくとも、相応しい振る舞いで応答することがあるのです。蓋を外すのももどかしかったのか感情が高ぶっていたのか、丁寧に蓋を外してという動作なしに、いきなり、叩き壊してしまうのです。彼女の一切を、その人生さえもぶちまけずにはおられなかったのでしょうか。
 香油を注いだ女性には、聖書の中の文章には描かれていない苦しみ、悲しみ、孤独、痛み、つまり、言い様のないそれまで辿って来た人生があったのでしょう。香油は彼女の人生の中で唯一慰めとなる象徴でもあり具体でもあるモノだったのでしょう。
 主イエスの活動は人間の尊厳そのものの回復、復権を闘い取るものでした。それゆえ、活動の初期段階から既に周りでは殺意が蠢いていた。主イエスにまとわりつく死の臭い、十字架の血の臭い、腐りゆく肉の臭い、それをこの女性は感じていたのでしょうか。主イエスの来るべき孤独な十字架上の死への共鳴が、彼女のこころに起こっていたのでしょう。それらの臭いを香油の臭いで、イエスの死の予感の臭いがたとえ打ち消すことのできないものであったとしても、そうせずにはおられなかったのです。
 「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。』」(14:6-8)この言葉は、彼女を受け入れ、理解されたことへの感謝があります。また、「するままにさせておきなさい」という言葉の感覚には、「解放せよ」という意味合いがあります。彼女が、生き直すことへの促しがここにはあるのです。

2016年8月 7日 (日)

マルコによる福音書 14章1~2節 「それでも前進するイエス」

 イエスに対する敵意は既に3章6節に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。イエスが活動を始めてすぐの段階です。それでも、主イエスは、殺意の中を十字架へと向かって、前進することをやめることはないのです。その主の歩みとは、平和を実現していくことによって、「その人自身が生かされてあることを有難いこと、喜ばしいことだと受け止めることのできる世界」を実現するための歩みでした。
 エフェソの信徒への手紙では次のように語られています。【実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。】 
 また、イマヌエル・カントの『永遠平和のために』には次のような言葉があります。【平和というのは、すべての敵意が終わった状態をさしている。】【戦争状態とは、武力によって正義を主張するという悲しむべき非常手段にすぎない。】【常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである。】【殺したり、殺されたりするための用に人を当てるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって、人格にもとづく人間性の権利と一致しない。】
 殺害に至る敵意の中でも前進し続ける主イエスの姿は、人の命が本当に尊いものであるならば、それを相応しく尊いものとして取り戻すところから始めようじゃないか、ということではないでしょうか。この意思を十字架の出来事によってなされた和解の業として、教会は受け止め直すのです。そのような意味において平和ということを考えるときには、今一度エフェソの信徒への手紙の示すところの「十字架によって敵意を滅ぼされました」という平和の主であるイエス・キリストへの信頼によって、この社会に、そしてわたしたちの遣わされる現場において証ししていく務めが与えられていることを確認しながら、祈りましょう。

« 2016年7月 | トップページ | 2016年9月 »

無料ブログはココログ