「平和を実現する人々」・マタイによる福音書5:9・ローマの信徒への手紙8:14-16 植田善嗣
聖書を2か所読んでいただきましたが、どちらも「神の子」について、語られています。マタイ5:9【平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。】ロマ書8:14【神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。】と記されています。
私たちキリスト者は、主イエスの十字架によってすべての罪が贖われ、私たちの心と体は神の宮、聖霊の宮とされ、神の聖霊によって生きるものとなり「神の子」とされたのです。つまり、私たちは主イエスによって、主の平和を実現するための召命を受けているということになると思います。ここで、主の平和について、聖書から学んでおきたいと思います。エフェソの信徒への手紙2:14-17
こうして、【十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。】との主の平和の福音を目の前にしてみますと、先ほど述べたような「主の平和を実現するための召命を受けている」などと軽々しくは言えないのではないかとの思いに駆られます。このような時、思い起こすのは出エジプト記のモーセです。
「イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」という神からの召命を受けたのです。しかし、モーセは様々な理由を見つけ「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わし下さい。」と拒否し、神はモーセに対し、怒りを発したと記されています。それでも神はモーセに言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
私たちもモーセのように「無理です、誰かほかの人を」と言いたくなります。しかし、私たちは主イエスの十字架によって「神の子」として新しい命に生きるものとされています。その主が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とお言葉を掛けてくださるのです。私のうちには主の召命に応える力は皆無ですが、このお言葉のみに信頼を置き、祈りをもって主イエスに従う以外に選択肢は残されていないということです。
私たちは礼拝の最後に派遣のお言葉をお聞きします。主は言われる。「わたしはだれをつかわすべきか。だれがわたしと共にいくだろうか。」この主のお言葉「だれがわたしと共にいくだろうか。」を心の奥底に留めておきたいと思います。私たちはただ一人で、この世に派遣されていくのではなく、主が共に歩んでくださるとのお言葉を聞いているのです。感謝と喜びと信頼とをもって「ここに私がおります。私を遣わしてください。」とお応えして、この世の現場に送り出されていく私たちでありたいと願うものです。
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