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2016年7月

2016年7月31日 (日)

マルコによる福音書 13章3~37節 「教会の生きる場」

 来臨のイエスが来られる時までの間、つまり、「すでに」という過去と「やがて」という将来、その間の期間のことをキリスト教の専門用語では「中間時」といい、教会の時と考えられています。「すでに」から「やがて」に向かって、この世を具体的な教会というキリストのからだとして旅する共同体という群れなのです。いつ到来するのか分からない世の終わりに向かって過ごす教会の責任というものは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」という言葉によって支えられているわけです。そのイエス・キリストの言葉に希望をもつことによって、その上でこの世において、為すべきことを為していけ、ということです。
 教会がイエスの背中を見ながら歩むとは、この世に対する見張りの役目という具体を自覚するという表明であったわけです。イエスであればどうだったか、ということを絶えず心のどこかに据えておかないと宗教的にも国家的にも熱狂、陶酔に飲み込まれていくのです。そして、弟子たちがイエスがゲッセマネの園で祈られた時に眠ってしまうというような限界をもつ人間の弱さ、教会の弱さの中で、それでも「気を付けて目を覚ましていなさい」との言葉に信頼を寄せていくことこそが、この時代のただ中にあって負うべき教会の使命なのです。
 いつやってくるかわからない世の終わりに向かう歴史の中に教会の責任がある。熱狂や陶酔の枠の中で自己完結するようなアイデンティティに安住することに対して、果たしてそうなのかという疑問符をいつもどこかにもっていなければいけない。何故だ、どうしてだ、という問いを提出することによって思考する、考えるということです。今、この国は心の中に「?」をもつことをしない思考停止状態にあるのではないでしょうか。イエス・キリストの生涯は「?」が言葉として肉をもったと言えるのではないでしょうか。その方の言葉であるからこそ、ここに信をおいて、わたしたちは「気を付けて目を覚まし」、この世における教会の責任とは何であるか、教会の使命とは、イエス・キリストを宣べ伝えるとはどういうことなのかを問い続けることが求められているのです。
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」このイエス・キリストの言葉に希望をつないでいくことができるか、どうか、過ぎ去っていくこの世界観にあって、決して滅びることがないイエス・キリストおひとりに希望をつないでいくことができるかどうか、そこにわたしたちの教会の信仰、希望が、よってもってかかっているのです。

2016年7月24日 (日)

マルコによる福音書 13章1~2節 「壊れるもの、壊れないもの」

 弟子たちは神殿の見事さに感嘆しています。ここで気になる単語があります。「石」です。12:1からの主イエスによる詩編118:22-23の引用と対応しているのです。すなわち、「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」(12:10-12)と。今は荘厳で見た目には立派ではあるけれども無残に破壊されてしまう神殿と対比されるのは、惨めな仕方で捨てられてしまうようなちっぽけな石ですその石こそが親石になるのだと。
 わたしたちが、「すばらしい」こととして注目すべきは本当のところ何なのかを見極めて決断するようにと、促しているのではないでしょうか。十字架と復活によって、ただ一回最終決定的になされた事柄がわたしたちの存在根拠であるという事実にこそ注目すべきなのです。捨てられた石とは、いうまでもなくイエス・キリストのことです。
 主イエス・キリストは、疎外感、見捨てられ感などによって弱りを覚えている人々のところに手を差し伸べ、声をかけてくださっているのです。一人ひとりが自分で立ちあがってイエス・キリストを信じ従っていく決意が与えられるように促すのです。さらに、他国の人たちが見捨てられ感から尊厳へとたちあがるあり方につながっていくことができるのです。そして、連帯していく道をわたしたちは同時に求められているのです。その独り子、捨てられていった独り子が実は見捨てられることによって、すべての見捨てられている人の尊厳を取り戻し、その人をその人として生かそうとなさっているからです。それをわたしたちが信じて認めるならば、世界中の抑圧された民とつながっていく可能性があるはずです。そのことは、わたしたちの常識からは外れるので、「これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。」(12:11)のです。
 わたしたちは、今、立派に見えるものに心を奪われてはなりません。みすぼらしくとも壊れないもの、朽ちないものを見極める心が求められているのです。
 わたしたちは、確かにこの世においては、儚いものであり、壊れていくものであり、朽ちていくものだという限界が与えられています。にもかかわらず、ではなくて、だからこそ、今借貸し与えられているお互いの<いのち>を愛しみあいながら責任的に歩んでいく道へと招かれているのです。それは、永遠に壊れることがない神の言葉によって支えられ、生かされているからなのです。

2016年7月17日 (日)

マルコによる福音書 12章38~44節 「構造悪を見抜く」

 「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」という41-44節のやもめの献金の姿について38-40節の文脈からすれば、美談として読まれがちですが、直前の。相談料だか祈祷料だか分りませんが、律法学者が「やもめの家を食い物にし」とあるように、むしろ貧しい者たちから金を巻き上げて平然と神の前で正義を行っているかのごとく立ち居振る舞う律法学者のあり方への皮肉となっています。彼らの正しさや良心が、神殿に対する富の不正な蓄積を促してしまうという指摘です。
 神殿が搾取の装置としての機能する構造悪を、主イエスがつぶさに見届けられていることがわかります。当時の世界は不平等で、現代にもまして格差社会であって、富める者はさらに富が増し加えられ、貧しいものは、さらに貧しくされ、それが正義として強いられていく社会でした。主イエス・キリストは、自らをささげることによって、その社会を神の国に向かって変革していくことを、つまり、貧しいもの、体に弱りを覚える者、宗教的に汚れていると断罪されるもの、この人々への様々な差別や抑圧を自らが引き受けることを使命として、決断を述べておられるのではないでしょうか。
 やもめが不当な仕方で、しかも自らの判断でささげるようにして全財産が巻き上げられてしまっている事実があります。宗教的な敬虔が強いられているのか、マインドコントロールされてしまっているのか、貧しい者が自分の判断であったとしても、わずかにしかない全財産を巻き上げられてしまう仕組みは間違っているのではないか、そのようにイエスは思い起こさせようとしているのではないでしょうか。宗教的な構造悪についての問題提起がなされているのではないでしょうか。
 イエスの時代の古代の資本制についても、すでにイエスは直感的に「これはおかしいぞ」と気が付いていたはずなのです。お金の動きとか使われ方を検証することの必要性を改めて考える機会が与えられているのではないでしょうか?自らの意思で差し出してしまうような仕組みとしての構造悪があると認めざるを得なくなるのです。
 わたしたちの生活におけるお金の仕組みを巡って導き出される、この社会の構造悪によって、悪魔が罪深い誘いを行っている現実への注意喚起なのではないでしょうか。そこで、主イエスをキリストと告白するものは、主に対する応答として、祈りつつ知恵を絞ることが求められているのではないでしょうか。主イエスの方法論は、具体的な処方箋の提出には依りません。逆説的な仕方で、気づきを与えることによって、考え抜きながら、応答としての行動への招きなのです。ですから、わたしたちは、ただ黙しておらず、座してはいないあり方、そこに向かって招かれていることを確認するところから始めていく他ないのです。このような問題提起が語られているのです。

2016年7月10日 (日)

マルコによる福音書 12章35~37節 「ダビデの子?」 

 ダビデについて肯定的であるか、否定的であるのかは、新約の中で意見が分かれています。マタイやルカの系図に名前が記されていたり、マルコ11章で「そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(11:0-10)を含め、いくつかの伝承でも肯定的に捉えられています(使徒言行録13:23、ローマ1:3、二テモ2:8)。
 しかし、今日のイエスの問いは、律法学者たちはメシアである救い主を「ダビデの子」だと言っているが、何故か、です。イエスは、「メシアはダビデの子だ」という説に対して、詩編110:1を引用しながらメシアである救い主がダビデではないという宣言になります。すなわち、まことの王であるイエスはダビデの姿や方向性とは相いれない、180度ほどの違いがあるのだというのです。
 キリスト教会は、イエスをまことの王として理解すべきことが求められています。問題は、どのような姿で、どのような意味においてなのかです。ダビデのように人間の側からの期待される人間像であってはならないのです。まことの王に麗しさや美しさを求めることが見当違いであることは、イザヤ書53章の「苦難の僕」の姿から読み取れます。また、財力や権力、武力の否定はマルコ福音書11章のエルサレム入城の姿から導かれます。
 武力の象徴としての軍馬ではなく、子ろばに跨るイメージは平和の王としてのイメージを呼び起こすのです。麗しさもなく武力にも依存しない平和の王のイメージによってメシアがダビデだという考えを打ち砕くのです。王としてのイエスは、柔和と遜りに生きるのです(マタ11:28-30参照)。
 このまことの王の律法は、福音として説教によって今、語りかけられているのです。ダビデのようにではない、まことの王としての主イエスの言葉に聞き従うことができるのかという問いかけを伴ってです。
 この道への招きが、まことの王であるイエス・キリストの道なのです。ここにこそ、わたしたちは招かれているのです。今、強い国たらんと着々と準備を進めている日本の為政者たち。しかし、強いリーダーであることを拒否した、弱い者の傍らに立ち続ける主イエスを忘れてはなりません。聖書にはイエス・キリストを「ダビデの子」として理解する傾向もあれば、反対する傾向もあります。総合的に判断する中で、まことの王としての主イエスが<人の子>であることを理解することができるように聖霊の助けを願います。そして、まことの平和の王としてのイエス・キリストの求めに答えていくものとされたいと願いましょう。

2016年7月 3日 (日)

マルコによる福音書 12章28~34節 「福音と律法」 

 第一の掟は何か、と問う律法学者に主イエスは答えます。第一の掟は「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい。」であると。
 何を言うかではなくて、誰が言うかによって言葉の意味や指し示す方向性は変わります。当時のユダヤ教徒が考えている「隣人」というのは、とても狭い意味合いです。律法をキチンと毎日守っている仲間・同胞のことを「隣人」というのです。しかし、イエスが言うところの「隣人」とは、限りなく広がっていく可能性としての「隣人」なのです。つまり、関係性が閉じられていくような仕方ではなくて、新しい仲間や友を求めて「隣人」になっていくのです。
 民族とか宗教とかを乗り越えながら、同じ神によって創造され、貸し与えられた<いのち>において結び合わせられている、お互いがお互いとして祝福されて、生かされてある存在であることを喜び合って認めあうということが「隣人」を愛するということなのです。そして、それを導き出すのが、神を愛するということです。
 「隣人」を自分のように愛するということは、自分が神によって喜ばれている存在として他者に向かっていき、<いのち>によって繋がっていく可能性を信じることです。
 本当に大切な中心は、第一の掟と第二の掟を語ったのがイエス・キリストであるということです。主イエス・キリストが神ご自身として、わたしたちと同じ肉体を取られ、この世に来られた出来事を思い浮かべる必要があるのです。聖書の証言する主イエス・キリストこそが、まず「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」わたしたちのところに来てくださり、より弱い立場にされている人、病を得ている人、差別されている人、飢えている人、今日どうしたらいいのかと呻く人、そもそも生きている意味の分からなくなっている人の隣人となられた。人間の惨めさや弱さ、そのすべてを抱きかかえてくださった。これが福音です。
 わたしたちが神を愛し、隣人を自分のように愛することが可能にされるとすれば、それは自分たちの力によるのではなくて、イエス・キリストご自身が全ての人に向かって自らを「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」くださっている、その姿に対して応えていくこと、福音であるイエス・キリストにあって、神を愛し隣人を愛していくところの律法に生かされていくことに他ならないのです。

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