マルコによる福音書 13章3~37節 「教会の生きる場」
来臨のイエスが来られる時までの間、つまり、「すでに」という過去と「やがて」という将来、その間の期間のことをキリスト教の専門用語では「中間時」といい、教会の時と考えられています。「すでに」から「やがて」に向かって、この世を具体的な教会というキリストのからだとして旅する共同体という群れなのです。いつ到来するのか分からない世の終わりに向かって過ごす教会の責任というものは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」という言葉によって支えられているわけです。そのイエス・キリストの言葉に希望をもつことによって、その上でこの世において、為すべきことを為していけ、ということです。
教会がイエスの背中を見ながら歩むとは、この世に対する見張りの役目という具体を自覚するという表明であったわけです。イエスであればどうだったか、ということを絶えず心のどこかに据えておかないと宗教的にも国家的にも熱狂、陶酔に飲み込まれていくのです。そして、弟子たちがイエスがゲッセマネの園で祈られた時に眠ってしまうというような限界をもつ人間の弱さ、教会の弱さの中で、それでも「気を付けて目を覚ましていなさい」との言葉に信頼を寄せていくことこそが、この時代のただ中にあって負うべき教会の使命なのです。
いつやってくるかわからない世の終わりに向かう歴史の中に教会の責任がある。熱狂や陶酔の枠の中で自己完結するようなアイデンティティに安住することに対して、果たしてそうなのかという疑問符をいつもどこかにもっていなければいけない。何故だ、どうしてだ、という問いを提出することによって思考する、考えるということです。今、この国は心の中に「?」をもつことをしない思考停止状態にあるのではないでしょうか。イエス・キリストの生涯は「?」が言葉として肉をもったと言えるのではないでしょうか。その方の言葉であるからこそ、ここに信をおいて、わたしたちは「気を付けて目を覚まし」、この世における教会の責任とは何であるか、教会の使命とは、イエス・キリストを宣べ伝えるとはどういうことなのかを問い続けることが求められているのです。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」このイエス・キリストの言葉に希望をつないでいくことができるか、どうか、過ぎ去っていくこの世界観にあって、決して滅びることがないイエス・キリストおひとりに希望をつないでいくことができるかどうか、そこにわたしたちの教会の信仰、希望が、よってもってかかっているのです。
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