マルコによる福音書 13章1~2節 「壊れるもの、壊れないもの」
弟子たちは神殿の見事さに感嘆しています。ここで気になる単語があります。「石」です。12:1からの主イエスによる詩編118:22-23の引用と対応しているのです。すなわち、「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」(12:10-12)と。今は荘厳で見た目には立派ではあるけれども無残に破壊されてしまう神殿と対比されるのは、惨めな仕方で捨てられてしまうようなちっぽけな石ですその石こそが親石になるのだと。
わたしたちが、「すばらしい」こととして注目すべきは本当のところ何なのかを見極めて決断するようにと、促しているのではないでしょうか。十字架と復活によって、ただ一回最終決定的になされた事柄がわたしたちの存在根拠であるという事実にこそ注目すべきなのです。捨てられた石とは、いうまでもなくイエス・キリストのことです。
主イエス・キリストは、疎外感、見捨てられ感などによって弱りを覚えている人々のところに手を差し伸べ、声をかけてくださっているのです。一人ひとりが自分で立ちあがってイエス・キリストを信じ従っていく決意が与えられるように促すのです。さらに、他国の人たちが見捨てられ感から尊厳へとたちあがるあり方につながっていくことができるのです。そして、連帯していく道をわたしたちは同時に求められているのです。その独り子、捨てられていった独り子が実は見捨てられることによって、すべての見捨てられている人の尊厳を取り戻し、その人をその人として生かそうとなさっているからです。それをわたしたちが信じて認めるならば、世界中の抑圧された民とつながっていく可能性があるはずです。そのことは、わたしたちの常識からは外れるので、「これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。」(12:11)のです。
わたしたちは、今、立派に見えるものに心を奪われてはなりません。みすぼらしくとも壊れないもの、朽ちないものを見極める心が求められているのです。
わたしたちは、確かにこの世においては、儚いものであり、壊れていくものであり、朽ちていくものだという限界が与えられています。にもかかわらず、ではなくて、だからこそ、今借貸し与えられているお互いの<いのち>を愛しみあいながら責任的に歩んでいく道へと招かれているのです。それは、永遠に壊れることがない神の言葉によって支えられ、生かされているからなのです。
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