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2016年7月17日 (日)

マルコによる福音書 12章38~44節 「構造悪を見抜く」

 「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」という41-44節のやもめの献金の姿について38-40節の文脈からすれば、美談として読まれがちですが、直前の。相談料だか祈祷料だか分りませんが、律法学者が「やもめの家を食い物にし」とあるように、むしろ貧しい者たちから金を巻き上げて平然と神の前で正義を行っているかのごとく立ち居振る舞う律法学者のあり方への皮肉となっています。彼らの正しさや良心が、神殿に対する富の不正な蓄積を促してしまうという指摘です。
 神殿が搾取の装置としての機能する構造悪を、主イエスがつぶさに見届けられていることがわかります。当時の世界は不平等で、現代にもまして格差社会であって、富める者はさらに富が増し加えられ、貧しいものは、さらに貧しくされ、それが正義として強いられていく社会でした。主イエス・キリストは、自らをささげることによって、その社会を神の国に向かって変革していくことを、つまり、貧しいもの、体に弱りを覚える者、宗教的に汚れていると断罪されるもの、この人々への様々な差別や抑圧を自らが引き受けることを使命として、決断を述べておられるのではないでしょうか。
 やもめが不当な仕方で、しかも自らの判断でささげるようにして全財産が巻き上げられてしまっている事実があります。宗教的な敬虔が強いられているのか、マインドコントロールされてしまっているのか、貧しい者が自分の判断であったとしても、わずかにしかない全財産を巻き上げられてしまう仕組みは間違っているのではないか、そのようにイエスは思い起こさせようとしているのではないでしょうか。宗教的な構造悪についての問題提起がなされているのではないでしょうか。
 イエスの時代の古代の資本制についても、すでにイエスは直感的に「これはおかしいぞ」と気が付いていたはずなのです。お金の動きとか使われ方を検証することの必要性を改めて考える機会が与えられているのではないでしょうか?自らの意思で差し出してしまうような仕組みとしての構造悪があると認めざるを得なくなるのです。
 わたしたちの生活におけるお金の仕組みを巡って導き出される、この社会の構造悪によって、悪魔が罪深い誘いを行っている現実への注意喚起なのではないでしょうか。そこで、主イエスをキリストと告白するものは、主に対する応答として、祈りつつ知恵を絞ることが求められているのではないでしょうか。主イエスの方法論は、具体的な処方箋の提出には依りません。逆説的な仕方で、気づきを与えることによって、考え抜きながら、応答としての行動への招きなのです。ですから、わたしたちは、ただ黙しておらず、座してはいないあり方、そこに向かって招かれていることを確認するところから始めていく他ないのです。このような問題提起が語られているのです。

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