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2016年7月10日 (日)

マルコによる福音書 12章35~37節 「ダビデの子?」 

 ダビデについて肯定的であるか、否定的であるのかは、新約の中で意見が分かれています。マタイやルカの系図に名前が記されていたり、マルコ11章で「そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(11:0-10)を含め、いくつかの伝承でも肯定的に捉えられています(使徒言行録13:23、ローマ1:3、二テモ2:8)。
 しかし、今日のイエスの問いは、律法学者たちはメシアである救い主を「ダビデの子」だと言っているが、何故か、です。イエスは、「メシアはダビデの子だ」という説に対して、詩編110:1を引用しながらメシアである救い主がダビデではないという宣言になります。すなわち、まことの王であるイエスはダビデの姿や方向性とは相いれない、180度ほどの違いがあるのだというのです。
 キリスト教会は、イエスをまことの王として理解すべきことが求められています。問題は、どのような姿で、どのような意味においてなのかです。ダビデのように人間の側からの期待される人間像であってはならないのです。まことの王に麗しさや美しさを求めることが見当違いであることは、イザヤ書53章の「苦難の僕」の姿から読み取れます。また、財力や権力、武力の否定はマルコ福音書11章のエルサレム入城の姿から導かれます。
 武力の象徴としての軍馬ではなく、子ろばに跨るイメージは平和の王としてのイメージを呼び起こすのです。麗しさもなく武力にも依存しない平和の王のイメージによってメシアがダビデだという考えを打ち砕くのです。王としてのイエスは、柔和と遜りに生きるのです(マタ11:28-30参照)。
 このまことの王の律法は、福音として説教によって今、語りかけられているのです。ダビデのようにではない、まことの王としての主イエスの言葉に聞き従うことができるのかという問いかけを伴ってです。
 この道への招きが、まことの王であるイエス・キリストの道なのです。ここにこそ、わたしたちは招かれているのです。今、強い国たらんと着々と準備を進めている日本の為政者たち。しかし、強いリーダーであることを拒否した、弱い者の傍らに立ち続ける主イエスを忘れてはなりません。聖書にはイエス・キリストを「ダビデの子」として理解する傾向もあれば、反対する傾向もあります。総合的に判断する中で、まことの王としての主イエスが<人の子>であることを理解することができるように聖霊の助けを願います。そして、まことの平和の王としてのイエス・キリストの求めに答えていくものとされたいと願いましょう。

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