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2016年7月 3日 (日)

マルコによる福音書 12章28~34節 「福音と律法」 

 第一の掟は何か、と問う律法学者に主イエスは答えます。第一の掟は「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい。」であると。
 何を言うかではなくて、誰が言うかによって言葉の意味や指し示す方向性は変わります。当時のユダヤ教徒が考えている「隣人」というのは、とても狭い意味合いです。律法をキチンと毎日守っている仲間・同胞のことを「隣人」というのです。しかし、イエスが言うところの「隣人」とは、限りなく広がっていく可能性としての「隣人」なのです。つまり、関係性が閉じられていくような仕方ではなくて、新しい仲間や友を求めて「隣人」になっていくのです。
 民族とか宗教とかを乗り越えながら、同じ神によって創造され、貸し与えられた<いのち>において結び合わせられている、お互いがお互いとして祝福されて、生かされてある存在であることを喜び合って認めあうということが「隣人」を愛するということなのです。そして、それを導き出すのが、神を愛するということです。
 「隣人」を自分のように愛するということは、自分が神によって喜ばれている存在として他者に向かっていき、<いのち>によって繋がっていく可能性を信じることです。
 本当に大切な中心は、第一の掟と第二の掟を語ったのがイエス・キリストであるということです。主イエス・キリストが神ご自身として、わたしたちと同じ肉体を取られ、この世に来られた出来事を思い浮かべる必要があるのです。聖書の証言する主イエス・キリストこそが、まず「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」わたしたちのところに来てくださり、より弱い立場にされている人、病を得ている人、差別されている人、飢えている人、今日どうしたらいいのかと呻く人、そもそも生きている意味の分からなくなっている人の隣人となられた。人間の惨めさや弱さ、そのすべてを抱きかかえてくださった。これが福音です。
 わたしたちが神を愛し、隣人を自分のように愛することが可能にされるとすれば、それは自分たちの力によるのではなくて、イエス・キリストご自身が全ての人に向かって自らを「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」くださっている、その姿に対して応えていくこと、福音であるイエス・キリストにあって、神を愛し隣人を愛していくところの律法に生かされていくことに他ならないのです。

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