マルコによる福音書 12章18~27節 「神の力に委ねる」
イエスに対して論争が仕掛けられます。19節で「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と引用しているのは、はレビラート婚という、イスラエルの民が血筋を絶やさないための方法として採用されていた結婚の形式です。夫が子どもを残さないで死んだ場合、その妻は兄弟や近い親戚関係の男が引き取るというユダヤ教の制度です。このレビラート婚の習慣を前提として底意地の悪い、復活を巡る論争がなされます。7人の兄弟が子を残さず次々と死んで復活したならば、それぞれの妻となった一人の女の処遇はどうなるのかという問いです。当時の価値観では妻は一個の人格ではなく、夫の財産です。サドカイ派の言い分としては、もし復活があったとして、せっかく甦った妻は甦った7人の元夫に公平に分配されるなら、7等分されて引き裂かれて死んでしまうから復活は無意味だろうというわけです。復活を信じている者への悪意と軽蔑を含んだ問いが、ここにはあります。
イエスは彼らに思い違いをしていると反論します。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と(25節)。復活の身体は、人間がイメージする延長線上にあるのではない、との判断がイエスにはあります。神に任せておけばいい領域だとの宣言です。此岸の<いのち>も彼岸の<いのち>も守られていることに信頼し委ねていく以上のことは、人には許されてはいないのです。この謙虚さに留まる限りにおいて、わたしたちは神から貸し与えられている<いのち>の尊さ、掛け替えのなさに触れることができるのです。これが「天使のように」との意味です。
これを踏まえ、主イエスは語ります「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。イエスの感覚では、アブラハムもイサクもヤコブも今、確実に神のもとで生きているのです。此岸の<いのち>も彼岸の<いのち>も神の守りに包まれた確かさゆえに安心だという、あらゆる<いのち>への祝福の宣言が論争においてなされているのです。この教えは、「今ここで」具体的に生かされてある<いのち>に対する祝福の道を指し示すのです。神の力に委ねて生きる道が、わたしたちには備えられているのです。天国についての教えは、この世での、「今ここで」の生き方を守りのうちに問いかけ続けているのです。
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