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2016年6月

2016年6月26日 (日)

マルコによる福音書 12章18~27節 「神の力に委ねる」

 イエスに対して論争が仕掛けられます。19節で「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と引用しているのは、はレビラート婚という、イスラエルの民が血筋を絶やさないための方法として採用されていた結婚の形式です。夫が子どもを残さないで死んだ場合、その妻は兄弟や近い親戚関係の男が引き取るというユダヤ教の制度です。このレビラート婚の習慣を前提として底意地の悪い、復活を巡る論争がなされます。7人の兄弟が子を残さず次々と死んで復活したならば、それぞれの妻となった一人の女の処遇はどうなるのかという問いです。当時の価値観では妻は一個の人格ではなく、夫の財産です。サドカイ派の言い分としては、もし復活があったとして、せっかく甦った妻は甦った7人の元夫に公平に分配されるなら、7等分されて引き裂かれて死んでしまうから復活は無意味だろうというわけです。復活を信じている者への悪意と軽蔑を含んだ問いが、ここにはあります。
 イエスは彼らに思い違いをしていると反論します。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と(25節)。復活の身体は、人間がイメージする延長線上にあるのではない、との判断がイエスにはあります。神に任せておけばいい領域だとの宣言です。此岸の<いのち>も彼岸の<いのち>も守られていることに信頼し委ねていく以上のことは、人には許されてはいないのです。この謙虚さに留まる限りにおいて、わたしたちは神から貸し与えられている<いのち>の尊さ、掛け替えのなさに触れることができるのです。これが「天使のように」との意味です。
 これを踏まえ、主イエスは語ります「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。イエスの感覚では、アブラハムもイサクもヤコブも今、確実に神のもとで生きているのです。此岸の<いのち>も彼岸の<いのち>も神の守りに包まれた確かさゆえに安心だという、あらゆる<いのち>への祝福の宣言が論争においてなされているのです。この教えは、「今ここで」具体的に生かされてある<いのち>に対する祝福の道を指し示すのです。神の力に委ねて生きる道が、わたしたちには備えられているのです。天国についての教えは、この世での、「今ここで」の生き方を守りのうちに問いかけ続けているのです。

2016年6月19日 (日)

マルコによる福音書 12章13~17節 「皇帝のもの、神のもの」

 キリスト教徒の生き方の基本には楽天的なものを根底に据えながら歩んでいく、ということがあります。しかし、ただ単に気楽な生き方ではいけないわけで、パウロがそうであったように、神への信頼を基本に据えながら、考える力、悩む力が求められているのではないでしょうか。しかし今、悩む力とか考える力が、どうも低下しているのではないかとキリスト教界を見ると思えてくるのです。○×式であるとか二者択一式で判断する傾向が強いと感じているのです。悩みがないのはいいとか、悩みから解放されて天国に暮らしてしまっているような生き方がいいような空気になっているのです。しかし、違うのではないでしょうか。もっと、考え悩みながら、解決困難な道にこそ、キリスト教徒はいるべきです。
 今日の聖書では、イエスに「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」と問いかけています。これに対して、納めると答えても納めないと答えても、断罪の対象にされてしまいます。どちらに対して斯く斯く云々と答えても、罪ありとなるのです。デナリオン銀貨をローマに納めていいとイエスが答えたならば、ユダヤ人としてローマに魂を売る許せない奴とされてしまい、またローマに税金を払うべきでないと答えたならば、ローマに対する反逆になるのです。納めていいと言えば、ユダヤ教の側からは赦せないとなるし、納めてはいけないと言えばローマの側からは赦せなくなるのです。
 なので、イエスはここで考えたのでしょう。持って来させたデナリオン銀貨にあるのはティベリウスの肖像であり、銘も「崇高なる神の子 崇高なる大祭司なるティベリウス」とあります。イエスの答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。ここで問題になっている「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」を田川建三は、皇帝に支払う人頭税、そして神殿に支払う様々な神殿税を含む税金、それぞれ払えばいいだろ、あなたたちはそうしているのだから、と理解しています。
 「あれかこれか」という解釈ではなくて、今一度困難な問題の前に留まっていきながら<今>ということ、そして、今の誰がどのようにして人々を支配し、圧力を加えているのか、そして、それに抗っていく知恵とか道というものを、根底に支えられている楽観的な祈りに支えられて、考え抜く、悩み抜くというというあり方を、今日の聖書は今のわたしたちに向かって語りかけているのです。ルールをかざして、これに従えと理不尽に突き付けられた時、従うのでもなくそむくのでもない、第3の道を探す。そこではおそらく創造力やユーモアが重要となってくるでしょう。そのゆとり、振り幅にこそ、主イエスの愛があると思います。そのためには、わたしたちの心のどこかにクエスチョンマークを持って対峙することが必要なのです。問うこと抜きのキリスト教信仰はあり得ないからです。

2016年6月12日 (日)

マルコによる福音書 10章13~16節 「祝福されて」

 イエスが神さまのお話をしているところに、触ってもらいたい、と小さな子どもたちをお母さんやお姉さんたちが連れてきましたが、弟子たちが邪魔をしたのです。けれども、イエスは弟子たちのそういう態度を見て「これを見て憤り」とあります。子どもに限らず、一人の人が大切にされていないと、イエスもすごく怒ることがあるのです。そして、「子供たちをわたしのところに来させなさい」「妨げてはならない」と言いました。この言葉は元々の意味から考えると、自由にするとか解き放つ、あるいは解放する、そういう意味で、子どもたちが子どもたちのままで自由にされて解き放たれて、子どもらしく生きることがいいのだ、それが素敵なことなのだとイエスは考えていたのでしょう。そういう風に解き放たれた子どもたちこそが神さまの願いなのだというのです。「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。手を置いてというのは、イエスの想いをその人の、子ども一人ひとりの心の一番奥底にまで届けたい時の動作です。あなたは今日生きていて、ありがとう、という祝福です。
 おとなたちは、子どもたちに対して勝手な幻想や理想を押し付けてしまいがちです。それに、子どもたちは気づいているから、気に入られるように演じて見せたり、あるいは反発したりするのです。エゴイズムは本来、「神を大切にすることは他者を大切にすること」というイエスの教えとは逆になりますが、子どものエゴイズムは、成長のために必要なものです。その自己中心性との付き合い方が大切なのです。
 『ともだちいっぱい』という絵本があります(作:新沢としひこ、絵:大島妙子、ひかりのくに)。幼稚園で「みちる」が大好きな絵本を読んでいたら「さとる」がやってきて、奪い取ろうとします。「みちる」は絵本の主人公のカバのブイブイは私の友達なんだからダメと断ります。言い合いをしているところに他の子どもがやってきて「友だちの友だちは友だち」という別の視点を与えます。すると、他の子どもたちもやってきて、みんなブイブイと友達になっちゃった、という展開になるのです。そのあと、誰かが園長先生と友だち、と言うと、みんなで園長先生のところに行って友だちだよね!アリと友だちの子がいると、みんなもアリの友だちと。あるいは、歌と友だち、と広がっていきます。こうしてカバのブイブイの絵本の取り合いから始まった事件は、みんなが空と友だちになるところで終わります。
 イエスが、子どものエゴイズムを受け止め、新しい関係を作り上げていく子どもの<いのち>の可能性を認めていくことで、『ともだち いっぱい』が事実としてある、これが今日の聖書から教えられているのです。

2016年6月 5日 (日)

マルコによる福音書 12章1~12節 「石ころは捨てられても」

 今日の聖書は、ぶどう園のたとえです。神に対するイスラエルの不信、預言者たちに対する軽蔑、からイエス殺害に至る歴史が描かれています。主人(神)が僕(預言者)を次々に送ってもらちが明かず、最後に愛する息子(イエス)を送ったが、農夫たち(イスラエル)は彼を殺した、と。
 イエス・キリストの出来事、それは大きな世界の歴史からすれば、世界の片隅で起こったことなのです。もし福音書というものが残されていなければ、歴史の記憶から忘れ去られた、そういう一人の男のことです。イエス・キリストがまことに神の独り子であることを受け入れられないところでは、まったく取るに足らない出来事だと言えます。
 詩編の言葉を引用しています。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」(12:10-11)捨てられた石とは、いうまでもなくイエス・キリストのことです。「『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』とあります。当時や日本でも古い家は主だったところに大きくて丈夫な石を置いて、その上に柱を立てて家を建てます。「隅のかしら石」とは、家を建てる上での基本となる柱を据える土台、基礎のことです。「家を建てる者の捨てた石」とは、そもそも基礎となる石に相応しくないものだということです。
 主イエス・キリストは、疎外感、見捨てられ感などによって弱りを覚えている人々のところに手を差し伸べ、声をかけ、一人ひとりが自分で立ちあがってイエス・キリストを信じ従っていく決意が与えられるように促すのです。さらに、「疎外された」他者が見捨てられ感から尊厳へとたちあがるあり方につながっていくことができるのです。そして、連帯していく道をわたしたちは同時に求められているのです。捨てられていった独り子が実は見捨てられることによって、すべての見捨てられている人の尊厳を取り戻し、その人をその人として生かそうとなさっているからです。そのことは、わたしたちの常識からは外れるので、「これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」(12:11)のです。神の独り子が謙遜と遜りにおいて石ころのように捨てられる十字架の出来事によって、今生きる場所を作り出してくださったということです。それをわたしたちが信じて認めるならば、世界中の抑圧された民とつながっていく可能性があるはずです。

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