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2016年6月19日 (日)

マルコによる福音書 12章13~17節 「皇帝のもの、神のもの」

 キリスト教徒の生き方の基本には楽天的なものを根底に据えながら歩んでいく、ということがあります。しかし、ただ単に気楽な生き方ではいけないわけで、パウロがそうであったように、神への信頼を基本に据えながら、考える力、悩む力が求められているのではないでしょうか。しかし今、悩む力とか考える力が、どうも低下しているのではないかとキリスト教界を見ると思えてくるのです。○×式であるとか二者択一式で判断する傾向が強いと感じているのです。悩みがないのはいいとか、悩みから解放されて天国に暮らしてしまっているような生き方がいいような空気になっているのです。しかし、違うのではないでしょうか。もっと、考え悩みながら、解決困難な道にこそ、キリスト教徒はいるべきです。
 今日の聖書では、イエスに「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」と問いかけています。これに対して、納めると答えても納めないと答えても、断罪の対象にされてしまいます。どちらに対して斯く斯く云々と答えても、罪ありとなるのです。デナリオン銀貨をローマに納めていいとイエスが答えたならば、ユダヤ人としてローマに魂を売る許せない奴とされてしまい、またローマに税金を払うべきでないと答えたならば、ローマに対する反逆になるのです。納めていいと言えば、ユダヤ教の側からは赦せないとなるし、納めてはいけないと言えばローマの側からは赦せなくなるのです。
 なので、イエスはここで考えたのでしょう。持って来させたデナリオン銀貨にあるのはティベリウスの肖像であり、銘も「崇高なる神の子 崇高なる大祭司なるティベリウス」とあります。イエスの答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。ここで問題になっている「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」を田川建三は、皇帝に支払う人頭税、そして神殿に支払う様々な神殿税を含む税金、それぞれ払えばいいだろ、あなたたちはそうしているのだから、と理解しています。
 「あれかこれか」という解釈ではなくて、今一度困難な問題の前に留まっていきながら<今>ということ、そして、今の誰がどのようにして人々を支配し、圧力を加えているのか、そして、それに抗っていく知恵とか道というものを、根底に支えられている楽観的な祈りに支えられて、考え抜く、悩み抜くというというあり方を、今日の聖書は今のわたしたちに向かって語りかけているのです。ルールをかざして、これに従えと理不尽に突き付けられた時、従うのでもなくそむくのでもない、第3の道を探す。そこではおそらく創造力やユーモアが重要となってくるでしょう。そのゆとり、振り幅にこそ、主イエスの愛があると思います。そのためには、わたしたちの心のどこかにクエスチョンマークを持って対峙することが必要なのです。問うこと抜きのキリスト教信仰はあり得ないからです。

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