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2016年6月 5日 (日)

マルコによる福音書 12章1~12節 「石ころは捨てられても」

 今日の聖書は、ぶどう園のたとえです。神に対するイスラエルの不信、預言者たちに対する軽蔑、からイエス殺害に至る歴史が描かれています。主人(神)が僕(預言者)を次々に送ってもらちが明かず、最後に愛する息子(イエス)を送ったが、農夫たち(イスラエル)は彼を殺した、と。
 イエス・キリストの出来事、それは大きな世界の歴史からすれば、世界の片隅で起こったことなのです。もし福音書というものが残されていなければ、歴史の記憶から忘れ去られた、そういう一人の男のことです。イエス・キリストがまことに神の独り子であることを受け入れられないところでは、まったく取るに足らない出来事だと言えます。
 詩編の言葉を引用しています。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」(12:10-11)捨てられた石とは、いうまでもなくイエス・キリストのことです。「『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』とあります。当時や日本でも古い家は主だったところに大きくて丈夫な石を置いて、その上に柱を立てて家を建てます。「隅のかしら石」とは、家を建てる上での基本となる柱を据える土台、基礎のことです。「家を建てる者の捨てた石」とは、そもそも基礎となる石に相応しくないものだということです。
 主イエス・キリストは、疎外感、見捨てられ感などによって弱りを覚えている人々のところに手を差し伸べ、声をかけ、一人ひとりが自分で立ちあがってイエス・キリストを信じ従っていく決意が与えられるように促すのです。さらに、「疎外された」他者が見捨てられ感から尊厳へとたちあがるあり方につながっていくことができるのです。そして、連帯していく道をわたしたちは同時に求められているのです。捨てられていった独り子が実は見捨てられることによって、すべての見捨てられている人の尊厳を取り戻し、その人をその人として生かそうとなさっているからです。そのことは、わたしたちの常識からは外れるので、「これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」(12:11)のです。神の独り子が謙遜と遜りにおいて石ころのように捨てられる十字架の出来事によって、今生きる場所を作り出してくださったということです。それをわたしたちが信じて認めるならば、世界中の抑圧された民とつながっていく可能性があるはずです。

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