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2016年6月12日 (日)

マルコによる福音書 10章13~16節 「祝福されて」

 イエスが神さまのお話をしているところに、触ってもらいたい、と小さな子どもたちをお母さんやお姉さんたちが連れてきましたが、弟子たちが邪魔をしたのです。けれども、イエスは弟子たちのそういう態度を見て「これを見て憤り」とあります。子どもに限らず、一人の人が大切にされていないと、イエスもすごく怒ることがあるのです。そして、「子供たちをわたしのところに来させなさい」「妨げてはならない」と言いました。この言葉は元々の意味から考えると、自由にするとか解き放つ、あるいは解放する、そういう意味で、子どもたちが子どもたちのままで自由にされて解き放たれて、子どもらしく生きることがいいのだ、それが素敵なことなのだとイエスは考えていたのでしょう。そういう風に解き放たれた子どもたちこそが神さまの願いなのだというのです。「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。手を置いてというのは、イエスの想いをその人の、子ども一人ひとりの心の一番奥底にまで届けたい時の動作です。あなたは今日生きていて、ありがとう、という祝福です。
 おとなたちは、子どもたちに対して勝手な幻想や理想を押し付けてしまいがちです。それに、子どもたちは気づいているから、気に入られるように演じて見せたり、あるいは反発したりするのです。エゴイズムは本来、「神を大切にすることは他者を大切にすること」というイエスの教えとは逆になりますが、子どものエゴイズムは、成長のために必要なものです。その自己中心性との付き合い方が大切なのです。
 『ともだちいっぱい』という絵本があります(作:新沢としひこ、絵:大島妙子、ひかりのくに)。幼稚園で「みちる」が大好きな絵本を読んでいたら「さとる」がやってきて、奪い取ろうとします。「みちる」は絵本の主人公のカバのブイブイは私の友達なんだからダメと断ります。言い合いをしているところに他の子どもがやってきて「友だちの友だちは友だち」という別の視点を与えます。すると、他の子どもたちもやってきて、みんなブイブイと友達になっちゃった、という展開になるのです。そのあと、誰かが園長先生と友だち、と言うと、みんなで園長先生のところに行って友だちだよね!アリと友だちの子がいると、みんなもアリの友だちと。あるいは、歌と友だち、と広がっていきます。こうしてカバのブイブイの絵本の取り合いから始まった事件は、みんなが空と友だちになるところで終わります。
 イエスが、子どものエゴイズムを受け止め、新しい関係を作り上げていく子どもの<いのち>の可能性を認めていくことで、『ともだち いっぱい』が事実としてある、これが今日の聖書から教えられているのです。

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