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2016年5月

2016年5月29日 (日)

マルコによる福音書 1章21~28節 「イエス、かまわないでくれ」  山田 康博 牧師

 今日の箇所は、イエスが「汚れた霊」(23節)に取りつかれている人を癒した話だ。これは1章29節以下では、「悪霊」と出てきて、他の箇所では「悪霊」にとり憑かれるとも言われている。このことは現代の私たちの状況で考えてみると、それは「精神を病む」ということだと思う。それをこの時代には「汚れた霊にとり憑かれる」と言った。イエスが出会った「汚れた霊にとり憑かれた人」というのは、どうして、このような病を負うようになったのだろうか。いろいろな原因があったと思うが、この男性は、通常の社会生活ができなかった、否、通常の社会生活ができないと見なされていた。この人は、イエスが安息日に会堂に行った。そこには安息日なので大勢の人が集まっていた。そこに、この「汚れた霊に取り憑かれた人」がいたのだ。きっと、この会堂は宗教施設だから、何らかの癒しと言うものを期待していたのだと思う。
 この人のところにイエスがやって来た。この人は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」(24節)と言う。「かまわないでくれ」と言うのは拒絶している言葉だ。しかし、彼は一方で、「神の聖者だ」と言っている。「かまわないでくれ」と言いながら、「あなたしか救う者がいない」とこの二つの言葉は、相矛盾している。この相矛盾することを、同時に、言わざるを得ない状態に追い込まれるのだ、追い込まれ、本当に潰されそうになっている。この人は、自分が何か自分の感情が引き裂かれてしまっている状態を、イエスの前で、さらけだしている。相矛盾することを言ってさらけだしている。彼は、イエスには、矛盾した引き裂かれた感情を、有りのままの自分を曝けだしてもいいのだ、という思いにさせられたのだ。
 イエスを見て鋭く感じ取った。病を負う人は時に感性が深く、鋭く、研ぎすまされる。苦しみと呪われたような状態の中から、一見わけの分からない言葉を言いながら、救いのサインをイエスに送っていたのだ。彼は、現代に生きる私たちを表わしているのではないか。現代の社会そのものを表わしているのではないか。
 すべての人々が恐れ、遠ざかり、関わろうとしなかった人に対して、イエスだけが関わろうとされた。このことは、世界の中に、本当に救いと癒しを求める者の声を聞こうとする方があるのだ、ということを表わしている。イエス・キリストという方がおられるということを!

2016年5月22日 (日)

マルコによる福音書 11章27~33節 「自分で考えてみよう」

 今日の聖書では、主イエスの「権威」に焦点があります。祭司長、律法学者、長老たちが「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と問います。「このようなこと」とは、狭くは、神殿で暴れたことです。広くは、1章21節から3章6節で描かれている、人を解放と自由へと招く「権威ある新しい教え」である奇跡行為と判断できます。
 「律法学者のようにではなく、権威ある者として」神ご自身の権威に生きたのです。律法学者たちの考えている権威とは別の物語が神ご自身によって用意されているのです。洗礼の時の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神の言葉、また、ゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られた生き方が、イエスの「権威」そのものなのです。
 新約聖書全体の中で「権威」と多くの場合に訳されているのはエクスーシアという言葉です。マルコによる福音書においては、奇跡物語であるとか悪霊を追い出す力の源のことを権威と呼んでいる感じです(1:22、1:27、2:10、11章で3回)。その「権威」を弟子たちの宣教に委託したのが、3:15と6:7です(新共同訳では弟子たちに対してエクスーシアが用いられるときは「権能」とされています)。
 主イエスの「権威」とは、人をあるがままで祝福し、かけがえのない<いのち>として取り戻す生き方です。人はそれぞれ主イエスの「権威」の輝きを受け、その反射によって自分自身を生きていくことができるのです。主イエス・キリストの神は、律法あるいは律法に支えられた常識によって枠の中に押し込める、罪の基準としての「彼らの権威」を拒絶します。しかし、わたしたちは往々にして無自覚のまま「彼らの権威」に支配された日常を生きてしまっています。思考を止めて大局に身を委ねてしまわず、自分で考えることが必要です。そして「自分で考える」ことを支えるのは、イエスの「権威」に他なりません。イエスの「権威」とは、神ご自身の「権威」です。神は、わたしたちの友となり仲間となる仕方でイエス・キリストとしてこの世に来てくださった。神ご自身の謙虚さと遜りにこそが、神(イエス)の「権威」です。これを受け入れることによって、わたしたちは自分で考えることができ、自由への道へと召し出されているのです。

2016年5月15日 (日)

マルコによる福音書 11章20~25節 「胸を張って生きるため」

 ユダヤ教の神殿に代表される権力、そしてまた背後にある「信教の自由を認めるという範囲内でユダヤ教を認める」ローマ帝国の権力、これらに対するイエスの振る舞いが焦点です。
 イエスの場合、権力に対して抵抗する、ないしはハプニングのようにして抗うという時にも、どこか基本的なところで、神の御心に寄り頼むあり方、それによって守られているという安心感のようなものが根っこにあるのです。それがイエスの生涯の基本である楽天性によって支えられているのです。
 実を結ばないいちじくとしてのイスラエル(エルサレム神殿に代表される)に対してどのような立場をとるのか。権力に対してどのような位置を取るのか、というところでイエスは22節にあるように「神を信じなさい」と語ります。この「信じる」姿勢ですが、わたしたちが考えているところの神を信じるということとは違うような気がします。わたしたちは、信仰を持ち物のようにして考えがちですが、信仰の実際は神にしかわからないものです。他人の信仰のありようを評価する資格はないのです。「神を信じなさい」という言葉を直訳すれば、「神の信を持て」「神の信実を持て」となります。人が信じる信仰なのではなくて、神ご自身の信仰なのだということです。それを受け入れよ、と言うのです。神が信じているところの信仰を示しているのです。神ご自身の信仰を持て、と言うのです。
 イエスがなさった奇跡物語は、神としてのイエスの信仰においてなされているのです。今日のいちじくが枯れたという記事も、イエスの信仰における言葉によって枯れたということです。イエスにおける神の信実に委ねていきなさいと言うのが「神を信じなさい」ということです。神の信実によって守られている、わたしたちのあり方がそのままで受け止められているのです。だから、積極的にこの世に向かって証しをしていく生き方ができるのだという約束があるのです。
 24節の「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」とは、自分勝手な願いを神にねだったら何でも自由になるということでは決してありません。信じるべき内容というのは、神に受け入れられていることを受け入れることなのです。これが「神を信じなさい」の内容です。25節の「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」というのは、結果として付いてくる人間のありようをより良き方向へと整えていけということでしょう。
 イエス・キリストご自身の信実においてなされたことに倣っていく道が、この世の権力に対してどのように向かっていくのかを決定するのです。教会と国家、教会と権力の問題は、まず神の御心に教会がしっかりと立っているのかどうかが試されているのです(「ドイツ福音主義教会の現状に対する神学的宣言」いわゆる「バルメン宣言」を参照)。
 23節では「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」とあります。人間の業ではなく神の信実にのみ依り頼むことで拓けてくる世界に向かって、胸を張って生きていきたいと思います。

2016年5月 8日 (日)

マルコによる福音書 11章12~19節 「イエスの流儀」

 神殿の機能は、ローマに支配されているという状況があったにせよ、ユダヤ人に対して非常に巧妙な集金装置の一つであると言えます。ローマ帝国や周辺には様々な貨幣が流通していましたが、ユダヤ教の言い分からすると皇帝の肖像など偶像に相当するものが刻まれていると解釈されたのです。それを口実にして様々な場所で出まわっている貨幣を献金用の貨幣(当時使われていなかった古い時代のフェニキアのツロ貨幣)に両替しなければならないとされていました。手数料も換算レートも不当であった可能性があります。また、生贄も使い回しされていたこともあるようです。
  そこで、イエスは神殿の境内で商売をする人たちの邪魔をするために暴れて見せました。これは、純粋なユダヤ教を実現しようということではなくて、あるいはまた本格的な武力蜂起に通じるような激しい物理的な暴力を用いて事を起こそうとしたのでもなくて、もう少し違った側面からのアクションを起こそうとしたのではないでしょうか。
 ヒントは、哲学者の鵜飼哲さんの方法では「波風を立てる」です。状況打破を大上段に構えるのではなくて、ちょっとしたところで始めたらいい、そんな発想です。
【天皇制については、わたしの印象では、東京よりも地方の都市のほうが、たとえばお店に皇室のカレンダーが貼ってあったり、眼に見えるかたちになっているようです。場所によっては、肖像画がある場合もある。わたしは、必ずそういうところに入ると、かならずひと言からかうようにしています。それなりに年季がいることかも知れませんが、そういうとき、様子を見て、少しだけ波風を立てて去る。みなさんも、試みていただければ面白いのではないかと思います。‥‥素朴な質問をそれなりに、ほがらかにぶつける手立ては決して少なくないし、わたしたち自身の自己規制が解ければ、できるようになることがいろいろあるだろうと思います。お店に入ったとき、肖像画があるようなところだったら、イヤなところにきたなあと思わずに、しめしめと、何か一言言わせていただこう、そして考えていただこうという、いたずら心を起こすようなところからも、始められるのではないかと思います。】
 今日のイエスのパフォーマンスというのは、このようなものだったのではないでしょうか。大風呂敷を広げ、社会変革のプログラムをなしていくよりは、むしろこういう、ちょっとしたところで波風を立てていくことが大切なのでしょう。石ころを水に投げ込んで小さな波が広がっていくように。小さな波風を立てるところから展開されると信じればいいのです。すでに変わり始めているからです。大きな流れをいきなり変えることはできないかもしれない。しかし、小さな波風を立てることはできるのです。これを続けて行くところに、イエスに倣う生き方があるのではないでしょうか。

2016年5月 1日 (日)

マルコによる福音書 11章1~11節 「ロバの子に乗って」 

 主イエスは、ロバの子に乗って城壁で囲まれたエルサレムに乗り込んでいきます。しかし、なぜロバの子でなければならなかったのでしょう。ロバについて旧約では価値の低いものと考えていたことがわかります。律法の規定によれば、すべての家畜の産む初子は神に献げなくてはなりませんが、ロバだけは例外で、献げものに値しないものと見做されていました。代わりに子羊を捧げることになっていたのです(出エジプト13:12 、13:13)。ロバの子は神に捧げることのできないもの、神が良しとしないもの、価値のないもの、でした。イエスはこのようなロバの子を選んだのです。このロバの子と対照的な家畜は馬です。馬は軍事力の象徴として捉えることもできます。通常、戦勝者は馬に乗って入城します。ここにイエスがロバの子を選んだ意味があります。 エルサレム入城の記事は、政治的なメシア、キリストを求め、願う民衆の意思の表れが読み込まれることがあるでしょう。しかし、そのような願いにまっすぐに応えることを、イエスはしていません。
 生き方を軍隊によって象徴される権力、武力によって整えていくことが人間の社会にとって相応しくないという判断が、今日の聖書には記されています。むしろ、ピエロのように武力の滑稽さを笑い飛ばすような皮肉をロバの子に乗ることで演じて見せたイエスのパフォーマンスなのです。権力を相対化し、やがては無化へと至らせることができるのだという庶民の知恵の復権こそが求められているのではないでしょうか?
 わたしたちは悪い意味での庶民の知恵に負けてしまうことがあります。長いものには巻かれろ、みたいな。しかし、否、との声をあげなければ現状の武力、権力を承認し、支えてしまうことになってしまうのです。反対しないものは賛成するものとされてしまうからです。この点、キリスト者の社会的責任は重いのです。神に対する応答としての奉仕である礼拝は、同時に人間に対する奉仕としての倫理であり、どのようにキリストを証ししていくのかの内容が絶えず問われ続けているのです。
 経済に裏付けられた軍事によって、世界を支配する現代に向かって、ロバに乗る仕方、丸腰で、エルサレム入城していく姿をこころに刻みたいのです。このような意味において、この世に仕えていく志が備えられることを願い続け、祈り続け、歩み続けて行くところにキリスト者としての証しに生かされていく人生があるのです。

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