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2016年5月22日 (日)

マルコによる福音書 11章27~33節 「自分で考えてみよう」

 今日の聖書では、主イエスの「権威」に焦点があります。祭司長、律法学者、長老たちが「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」と問います。「このようなこと」とは、狭くは、神殿で暴れたことです。広くは、1章21節から3章6節で描かれている、人を解放と自由へと招く「権威ある新しい教え」である奇跡行為と判断できます。
 「律法学者のようにではなく、権威ある者として」神ご自身の権威に生きたのです。律法学者たちの考えている権威とは別の物語が神ご自身によって用意されているのです。洗礼の時の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神の言葉、また、ゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られた生き方が、イエスの「権威」そのものなのです。
 新約聖書全体の中で「権威」と多くの場合に訳されているのはエクスーシアという言葉です。マルコによる福音書においては、奇跡物語であるとか悪霊を追い出す力の源のことを権威と呼んでいる感じです(1:22、1:27、2:10、11章で3回)。その「権威」を弟子たちの宣教に委託したのが、3:15と6:7です(新共同訳では弟子たちに対してエクスーシアが用いられるときは「権能」とされています)。
 主イエスの「権威」とは、人をあるがままで祝福し、かけがえのない<いのち>として取り戻す生き方です。人はそれぞれ主イエスの「権威」の輝きを受け、その反射によって自分自身を生きていくことができるのです。主イエス・キリストの神は、律法あるいは律法に支えられた常識によって枠の中に押し込める、罪の基準としての「彼らの権威」を拒絶します。しかし、わたしたちは往々にして無自覚のまま「彼らの権威」に支配された日常を生きてしまっています。思考を止めて大局に身を委ねてしまわず、自分で考えることが必要です。そして「自分で考える」ことを支えるのは、イエスの「権威」に他なりません。イエスの「権威」とは、神ご自身の「権威」です。神は、わたしたちの友となり仲間となる仕方でイエス・キリストとしてこの世に来てくださった。神ご自身の謙虚さと遜りにこそが、神(イエス)の「権威」です。これを受け入れることによって、わたしたちは自分で考えることができ、自由への道へと召し出されているのです。

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