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2016年5月15日 (日)

マルコによる福音書 11章20~25節 「胸を張って生きるため」

 ユダヤ教の神殿に代表される権力、そしてまた背後にある「信教の自由を認めるという範囲内でユダヤ教を認める」ローマ帝国の権力、これらに対するイエスの振る舞いが焦点です。
 イエスの場合、権力に対して抵抗する、ないしはハプニングのようにして抗うという時にも、どこか基本的なところで、神の御心に寄り頼むあり方、それによって守られているという安心感のようなものが根っこにあるのです。それがイエスの生涯の基本である楽天性によって支えられているのです。
 実を結ばないいちじくとしてのイスラエル(エルサレム神殿に代表される)に対してどのような立場をとるのか。権力に対してどのような位置を取るのか、というところでイエスは22節にあるように「神を信じなさい」と語ります。この「信じる」姿勢ですが、わたしたちが考えているところの神を信じるということとは違うような気がします。わたしたちは、信仰を持ち物のようにして考えがちですが、信仰の実際は神にしかわからないものです。他人の信仰のありようを評価する資格はないのです。「神を信じなさい」という言葉を直訳すれば、「神の信を持て」「神の信実を持て」となります。人が信じる信仰なのではなくて、神ご自身の信仰なのだということです。それを受け入れよ、と言うのです。神が信じているところの信仰を示しているのです。神ご自身の信仰を持て、と言うのです。
 イエスがなさった奇跡物語は、神としてのイエスの信仰においてなされているのです。今日のいちじくが枯れたという記事も、イエスの信仰における言葉によって枯れたということです。イエスにおける神の信実に委ねていきなさいと言うのが「神を信じなさい」ということです。神の信実によって守られている、わたしたちのあり方がそのままで受け止められているのです。だから、積極的にこの世に向かって証しをしていく生き方ができるのだという約束があるのです。
 24節の「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」とは、自分勝手な願いを神にねだったら何でも自由になるということでは決してありません。信じるべき内容というのは、神に受け入れられていることを受け入れることなのです。これが「神を信じなさい」の内容です。25節の「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」というのは、結果として付いてくる人間のありようをより良き方向へと整えていけということでしょう。
 イエス・キリストご自身の信実においてなされたことに倣っていく道が、この世の権力に対してどのように向かっていくのかを決定するのです。教会と国家、教会と権力の問題は、まず神の御心に教会がしっかりと立っているのかどうかが試されているのです(「ドイツ福音主義教会の現状に対する神学的宣言」いわゆる「バルメン宣言」を参照)。
 23節では「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」とあります。人間の業ではなく神の信実にのみ依り頼むことで拓けてくる世界に向かって、胸を張って生きていきたいと思います。

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