« マルコによる福音書 11章1~11節 「ロバの子に乗って」  | トップページ | マルコによる福音書 11章20~25節 「胸を張って生きるため」 »

2016年5月 8日 (日)

マルコによる福音書 11章12~19節 「イエスの流儀」

 神殿の機能は、ローマに支配されているという状況があったにせよ、ユダヤ人に対して非常に巧妙な集金装置の一つであると言えます。ローマ帝国や周辺には様々な貨幣が流通していましたが、ユダヤ教の言い分からすると皇帝の肖像など偶像に相当するものが刻まれていると解釈されたのです。それを口実にして様々な場所で出まわっている貨幣を献金用の貨幣(当時使われていなかった古い時代のフェニキアのツロ貨幣)に両替しなければならないとされていました。手数料も換算レートも不当であった可能性があります。また、生贄も使い回しされていたこともあるようです。
  そこで、イエスは神殿の境内で商売をする人たちの邪魔をするために暴れて見せました。これは、純粋なユダヤ教を実現しようということではなくて、あるいはまた本格的な武力蜂起に通じるような激しい物理的な暴力を用いて事を起こそうとしたのでもなくて、もう少し違った側面からのアクションを起こそうとしたのではないでしょうか。
 ヒントは、哲学者の鵜飼哲さんの方法では「波風を立てる」です。状況打破を大上段に構えるのではなくて、ちょっとしたところで始めたらいい、そんな発想です。
【天皇制については、わたしの印象では、東京よりも地方の都市のほうが、たとえばお店に皇室のカレンダーが貼ってあったり、眼に見えるかたちになっているようです。場所によっては、肖像画がある場合もある。わたしは、必ずそういうところに入ると、かならずひと言からかうようにしています。それなりに年季がいることかも知れませんが、そういうとき、様子を見て、少しだけ波風を立てて去る。みなさんも、試みていただければ面白いのではないかと思います。‥‥素朴な質問をそれなりに、ほがらかにぶつける手立ては決して少なくないし、わたしたち自身の自己規制が解ければ、できるようになることがいろいろあるだろうと思います。お店に入ったとき、肖像画があるようなところだったら、イヤなところにきたなあと思わずに、しめしめと、何か一言言わせていただこう、そして考えていただこうという、いたずら心を起こすようなところからも、始められるのではないかと思います。】
 今日のイエスのパフォーマンスというのは、このようなものだったのではないでしょうか。大風呂敷を広げ、社会変革のプログラムをなしていくよりは、むしろこういう、ちょっとしたところで波風を立てていくことが大切なのでしょう。石ころを水に投げ込んで小さな波が広がっていくように。小さな波風を立てるところから展開されると信じればいいのです。すでに変わり始めているからです。大きな流れをいきなり変えることはできないかもしれない。しかし、小さな波風を立てることはできるのです。これを続けて行くところに、イエスに倣う生き方があるのではないでしょうか。

« マルコによる福音書 11章1~11節 「ロバの子に乗って」  | トップページ | マルコによる福音書 11章20~25節 「胸を張って生きるため」 »

マルコによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルコによる福音書 11章12~19節 「イエスの流儀」:

« マルコによる福音書 11章1~11節 「ロバの子に乗って」  | トップページ | マルコによる福音書 11章20~25節 「胸を張って生きるため」 »

無料ブログはココログ