« マルコによる福音書10章46~52節 「身軽になれば‥‥」 | トップページ | マルコによる福音書 11章12~19節 「イエスの流儀」 »

2016年5月 1日 (日)

マルコによる福音書 11章1~11節 「ロバの子に乗って」 

 主イエスは、ロバの子に乗って城壁で囲まれたエルサレムに乗り込んでいきます。しかし、なぜロバの子でなければならなかったのでしょう。ロバについて旧約では価値の低いものと考えていたことがわかります。律法の規定によれば、すべての家畜の産む初子は神に献げなくてはなりませんが、ロバだけは例外で、献げものに値しないものと見做されていました。代わりに子羊を捧げることになっていたのです(出エジプト13:12 、13:13)。ロバの子は神に捧げることのできないもの、神が良しとしないもの、価値のないもの、でした。イエスはこのようなロバの子を選んだのです。このロバの子と対照的な家畜は馬です。馬は軍事力の象徴として捉えることもできます。通常、戦勝者は馬に乗って入城します。ここにイエスがロバの子を選んだ意味があります。 エルサレム入城の記事は、政治的なメシア、キリストを求め、願う民衆の意思の表れが読み込まれることがあるでしょう。しかし、そのような願いにまっすぐに応えることを、イエスはしていません。
 生き方を軍隊によって象徴される権力、武力によって整えていくことが人間の社会にとって相応しくないという判断が、今日の聖書には記されています。むしろ、ピエロのように武力の滑稽さを笑い飛ばすような皮肉をロバの子に乗ることで演じて見せたイエスのパフォーマンスなのです。権力を相対化し、やがては無化へと至らせることができるのだという庶民の知恵の復権こそが求められているのではないでしょうか?
 わたしたちは悪い意味での庶民の知恵に負けてしまうことがあります。長いものには巻かれろ、みたいな。しかし、否、との声をあげなければ現状の武力、権力を承認し、支えてしまうことになってしまうのです。反対しないものは賛成するものとされてしまうからです。この点、キリスト者の社会的責任は重いのです。神に対する応答としての奉仕である礼拝は、同時に人間に対する奉仕としての倫理であり、どのようにキリストを証ししていくのかの内容が絶えず問われ続けているのです。
 経済に裏付けられた軍事によって、世界を支配する現代に向かって、ロバに乗る仕方、丸腰で、エルサレム入城していく姿をこころに刻みたいのです。このような意味において、この世に仕えていく志が備えられることを願い続け、祈り続け、歩み続けて行くところにキリスト者としての証しに生かされていく人生があるのです。

« マルコによる福音書10章46~52節 「身軽になれば‥‥」 | トップページ | マルコによる福音書 11章12~19節 「イエスの流儀」 »

マルコによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルコによる福音書 11章1~11節 「ロバの子に乗って」 :

« マルコによる福音書10章46~52節 「身軽になれば‥‥」 | トップページ | マルコによる福音書 11章12~19節 「イエスの流儀」 »

無料ブログはココログ