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2016年4月

2016年4月24日 (日)

マルコによる福音書10章46~52節 「身軽になれば‥‥」

 盲人バルティマイは、物乞いを生業としていたようです。エリコという街はエルサレムの比較的近くです。過越しの祭りも近づいていましたからエルサレム巡礼に来た人々が大勢いたでしょう。ユダヤ教の教えは、貧しい人など社会的弱い立場の人に施しをすることは良いことであるとされていましたから、いわば稼ぎ時です。
 バルティマイはイエスとその一行に向かって、とにかく大きな声で叫びます「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。どこにいるのか分からないので四方八方に向かって声をあげたのでしょう。よっぽど勇気が必要だったと思います。それほど切羽詰ったものがあったということです。周りの人たちは迷惑だったのでしょうか、叱りつけて黙らせようとしましたが、ますます彼は大きな声で叫び続けたのです。この叫びというのは、主なる方の憐れみをいただいて、もう一度本当に自分らしい生き方をしたいという叫びです。中身としては祈りです。
 それに対して、主イエス・キリストは「あの男を呼んで来なさい」と語ります。そこでバルティマイは呼ばれて「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と弟子に言われます。そして「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」のです。「上着を脱ぎ捨て」とありますが、「投げ捨て」が正しいようです。当時、自分の前に上着を広げて物乞いをするのが定番でした。それを前提として読むと、大切な施されたお金が積み上げられている上着を投げ捨てたという場面が広がってきます。イエスに呼ばれたら上着を投げ捨てるという行為に導かれるのだということです。施しを受けることによって生計を立てる暮らしを捨てるということです。今までのような誰彼に依存して生きていくという生活から脱出できるのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」の中の「立ちなさい」に象徴されているのは「自立」ということです。自分が自分として、自分らしく生きていくこと。今まで培ってきた生き方を今一度新しく捉え直して、新しく生きていくことをイエスの言葉に導かれて歩んでいく、そういうイエスの道に連なっていく歩みへと導かれた。バルティマイは人生観とか価値観、財産などすべてを投げ捨てて、神によってのみ導かれていく道を歩んでいくことができるのです。それが「躍り上がって」とあるように喜ばしい自分を取り戻すことができたという、招きの奇跡なのです。このバルティマイのあり方というものをわたしたちは自らのあり方に重ね合わせて読んでみましょう。そうすれば、この物語がわたしたちの心の中で動き始めて行くに違いありません。身軽になって生きていく道が用意されているのだと。

2016年4月17日 (日)

マルコによる福音書 10章32~45節 「仕えるために」

 ヤコブとヨハネ兄弟が、来るべき日にキリストが栄光の座につかれるとき、一人を右に一人を左にと、願います。主イエスが十字架へと歩まれる方であることが、全く、ここでは信じられていないのです。他の10人はこのことで腹を立てた、とありますが、かの二人が十字架への道行きの主イエスを理解できないことに対する怒りではなく、二人の抜け駆けに対してなのです。あわよくば、自分が栄光の主の隣になりたいのです。この意味で、ヤコブとヨハネの願いは、他の10人の願いでもあったということになるでしょう。
 神から遣わされるメシアとは、この世の権力者のように、仕えられるためではなく、仕えるためである、と主は言われます。これは、当時のメシア観、キリスト観とは非常に違っているものです。当時待望されていたメシア、キリストとはこの世の権力者のように、さらには、それらを上回る権力者の姿で現れるからです。つまり、栄光の姿で天から下り、多くの人々を支配する、と信じられていました。そして当然、当時の常識を共有していた弟子たちもそのような姿を期待したわけです。しかし主イエス自身は、むしろ逆に人々に仕える者だ、と諭し続けるのです。
 権力を志向することが神の御旨でないことは、もちろん預言書に親しんでいたでしょうから、弟子たちも分かっていたはずです。しかし、現実には弟子たちもやはり人間であり、イエスがただ者でないと分かると、権力の座、栄光の座について欲しいと願ったのです。そしてその喜ばしき時には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と切に願ったのです。しかし主イエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうではない」と言われました。この世では、そして、あなたがたの心根も同様であるかも知れないが、にもかかわらず、あえて「あなたがたの間では」そうであってはならない、と諭されたのです。
 キリストは、この世の論理である権力を志向せず、神の論理である仕える者となられました。わたしたちがその主の恵みを受けるのであれば、この世の論理に従うのでなく、神の論理に従って、互いに仕える者を志すべきです。
 主イエス・キリストが、栄光一本やりのキリストではなくて、十字架への道行きの主であることに、導かれることで、たくまずして、互いに仕える道行きに連なることができることへの信を新たにしたいと願うものです。
 <他者のためにこそ存在する教会>というテーマに対して開かれた心が備えられ、ちょっとした何かから主イエスの想いに連なっていくことができるだろうと期待することができるはずです。今日の聖書は、主イエスの十字架を掲げる教会は、内面性、精神性といった事柄に留まるものではなくて、たとえヤコブやヨハネのような名誉欲の誘惑に晒されながらであったとしても、この世のために、この世に仕える志を忘れてはならないのだと呼びかけているのです。

2016年4月10日 (日)

マルコによる福音書 10章17~31節 「価値観は神から来る」

 一人の人がイエスのもとにやってきて尋ねます。永遠の生命を受け継ぐためには何をしたらいいのか、と。イエスは十戒の後半部分である「倫理」に関する部分を告げたところ、幼い時から守ってきたと答えます。イエスは「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(10:21)と語ったところ、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(10:22)という応答をしたのです。
 これはイエスの招きの物語の中で相手が応答できなかった例です。「わたしに従いなさい」という言葉を阻むもの、原因には財産の問題があったのだというのです。
 弟子たちが驚いたのも無理はありません。ユダヤ教の伝統からすれば、神の祝福の具体は、長寿・子孫繁栄、富が増し加わることであったからです。「それでは、だれが救われるのだろうか」(10:26)とは彼らの常識の表明であったのでしょう。そこで、イエスは続けて語ります。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(10:24-25)と。これは比較の問題では不可能だとの宣言です。神の国に生きることを基本的に阻むのは、財産・富なのだというのです。
 生活を維持するためには、古代の資本主義体制にしても現代の高度消費資本主義にしても財産・富としてのお金は必要です。すべてを否定し、捨て去ることは現実的ではないことは誰にでも分かることです。しかし、イエスの言葉からすれば全否定に読むことができてしまうのです。どのような語りかけが、ここにはあるのでしょうか。鍵となるのは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(10:27)という言葉です。田川建三の翻訳では「人間のところでは不可能でも、神のところでは不可能ではない。何故なら、神のところでは一切が可能であるからだ。」となっています。神のところ、すなわち神の国の価値観に従うならば、財産・富の力は無化されてしまうので、財産・富のもつ悪魔的な力から自由になっていくことへと導かれていくのだということです。
 どのようにして生きていくのかという、人間の心を動かしている原動力が神からもたらされるなら、財産・富を相対化しうる冷静さを保つことができるのです。そこでこそ、財産・富の奴隷とならないための価値観が神からのみやってくることが信じられるのです。

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