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2016年4月17日 (日)

マルコによる福音書 10章32~45節 「仕えるために」

 ヤコブとヨハネ兄弟が、来るべき日にキリストが栄光の座につかれるとき、一人を右に一人を左にと、願います。主イエスが十字架へと歩まれる方であることが、全く、ここでは信じられていないのです。他の10人はこのことで腹を立てた、とありますが、かの二人が十字架への道行きの主イエスを理解できないことに対する怒りではなく、二人の抜け駆けに対してなのです。あわよくば、自分が栄光の主の隣になりたいのです。この意味で、ヤコブとヨハネの願いは、他の10人の願いでもあったということになるでしょう。
 神から遣わされるメシアとは、この世の権力者のように、仕えられるためではなく、仕えるためである、と主は言われます。これは、当時のメシア観、キリスト観とは非常に違っているものです。当時待望されていたメシア、キリストとはこの世の権力者のように、さらには、それらを上回る権力者の姿で現れるからです。つまり、栄光の姿で天から下り、多くの人々を支配する、と信じられていました。そして当然、当時の常識を共有していた弟子たちもそのような姿を期待したわけです。しかし主イエス自身は、むしろ逆に人々に仕える者だ、と諭し続けるのです。
 権力を志向することが神の御旨でないことは、もちろん預言書に親しんでいたでしょうから、弟子たちも分かっていたはずです。しかし、現実には弟子たちもやはり人間であり、イエスがただ者でないと分かると、権力の座、栄光の座について欲しいと願ったのです。そしてその喜ばしき時には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と切に願ったのです。しかし主イエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうではない」と言われました。この世では、そして、あなたがたの心根も同様であるかも知れないが、にもかかわらず、あえて「あなたがたの間では」そうであってはならない、と諭されたのです。
 キリストは、この世の論理である権力を志向せず、神の論理である仕える者となられました。わたしたちがその主の恵みを受けるのであれば、この世の論理に従うのでなく、神の論理に従って、互いに仕える者を志すべきです。
 主イエス・キリストが、栄光一本やりのキリストではなくて、十字架への道行きの主であることに、導かれることで、たくまずして、互いに仕える道行きに連なることができることへの信を新たにしたいと願うものです。
 <他者のためにこそ存在する教会>というテーマに対して開かれた心が備えられ、ちょっとした何かから主イエスの想いに連なっていくことができるだろうと期待することができるはずです。今日の聖書は、主イエスの十字架を掲げる教会は、内面性、精神性といった事柄に留まるものではなくて、たとえヤコブやヨハネのような名誉欲の誘惑に晒されながらであったとしても、この世のために、この世に仕える志を忘れてはならないのだと呼びかけているのです。

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