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2016年4月10日 (日)

マルコによる福音書 10章17~31節 「価値観は神から来る」

 一人の人がイエスのもとにやってきて尋ねます。永遠の生命を受け継ぐためには何をしたらいいのか、と。イエスは十戒の後半部分である「倫理」に関する部分を告げたところ、幼い時から守ってきたと答えます。イエスは「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(10:21)と語ったところ、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(10:22)という応答をしたのです。
 これはイエスの招きの物語の中で相手が応答できなかった例です。「わたしに従いなさい」という言葉を阻むもの、原因には財産の問題があったのだというのです。
 弟子たちが驚いたのも無理はありません。ユダヤ教の伝統からすれば、神の祝福の具体は、長寿・子孫繁栄、富が増し加わることであったからです。「それでは、だれが救われるのだろうか」(10:26)とは彼らの常識の表明であったのでしょう。そこで、イエスは続けて語ります。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(10:24-25)と。これは比較の問題では不可能だとの宣言です。神の国に生きることを基本的に阻むのは、財産・富なのだというのです。
 生活を維持するためには、古代の資本主義体制にしても現代の高度消費資本主義にしても財産・富としてのお金は必要です。すべてを否定し、捨て去ることは現実的ではないことは誰にでも分かることです。しかし、イエスの言葉からすれば全否定に読むことができてしまうのです。どのような語りかけが、ここにはあるのでしょうか。鍵となるのは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(10:27)という言葉です。田川建三の翻訳では「人間のところでは不可能でも、神のところでは不可能ではない。何故なら、神のところでは一切が可能であるからだ。」となっています。神のところ、すなわち神の国の価値観に従うならば、財産・富の力は無化されてしまうので、財産・富のもつ悪魔的な力から自由になっていくことへと導かれていくのだということです。
 どのようにして生きていくのかという、人間の心を動かしている原動力が神からもたらされるなら、財産・富を相対化しうる冷静さを保つことができるのです。そこでこそ、財産・富の奴隷とならないための価値観が神からのみやってくることが信じられるのです。

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コメント

7年前から聖書を自分なりに勉強しています。分からないところがいろいろあります。注釈書や参考書を読んでそれなりに理解しています。
マルコの10章31節に「多くの最初の者が最後の者となり最後の者が最初の者となる・・」とありますが、この意味が分かりません。いろいろネットで探しましたがよくわかりません。上岡教会さんのこのブログを見てもそれが説明ありません。17節から30節までは説明されている内容で理解できますが、31節が急に何かな?という感じです。
イエスは何を言おうとしているのかよろしければ教えていただけないでしょうか?

浅野幸三さま
コメントをありがとうございます。多分、求められていることに対する答えにはならないことは承知しているつもりです。要約ですから、実際この説教をしたときには(原稿と音声を確認していませんが…)10章31節について話しているかも知れません。しかし、それをここで繰り返すことに意味があるとは思えないのです。その時の解釈という過去のことだからです。ここの聖書の意味は斯く斯く云々という説明を断言する牧師はいます。が、少なくともわたしにはできません。聖書の解釈はかなりの蓋然性があっても「仮説」に過ぎないと自戒しているのです。読む度に解釈が変わる可能性があるということです。自分に届く聖書の言葉の力の働き方が、その時々によって違うことは当然だと考えています。同じ言葉であっても別の方向を示すことがあることも否定しません。あと、聖書の言葉が「分からない」ということも大切だと思っています。「分からない」から「分かりたい」と思いながら読むことは面白いからです。聖書の学び方やアプローチや関心の持ち方は色々あると思います。時間をかけて納得する方法を探していただければと思います。一点だけ付け加えておくと、聖書の言葉の一節を切り取って、気に入った言葉とかだけを読むことは避けてほしいです。マルコ福音書ならマルコ福音書を最初から最後まで通して読むことから、細かい部分を理解するようにしていただければと願っています。浅野さんがお近くの方であればいらしてください。遠くの方であれば、お近くの教会をいくつも巡ってみるのもよろしいかと思います。聖書は元々一人で読むものではありません。誰かと共有することで、自分では気付かなかった点について理解を深めることもできます。聖書を読む人が一人でも多くなれば嬉しいことです。毎日、聖書と暮らしていきましょう。お答えにならず申し訳ありません。

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