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2016年2月

2016年2月28日 (日)

イザヤ書11章1~10節、マルコによる福音書10章13~16節

世界祈祷日を覚えての子どもと大人の合同礼拝
  「キューバからのメッセージ」  
 青い空と青い海を思い起こしてみましょう。北アメリカと南アメリカの間にあるカリブ海に浮かぶ列島がキューバです。大小合わせると4000以上の島があるそうです。人口1100万人くらいですから日本の10分の1くらいでしょうか。式文の中に少し説明が載っていますので、後でお読みください。 キューバに元々住んでいた人たちは、今から400年程前、富を求めてやって来たスペイン人により奴隷のように重労働をさせられほとんど消滅してしまいました。その労働力を補うため、スペイン人たちは、今度はアフリカ各地から多くの黒人奴隷を連れてきました。
 100年程前、スペインの支配から自由になろうとした人たちが闘い、勝ったり負けたりしましたが、55年前自分たちの国として独立しました。ところが、その戦いに力を貸してくれたアメリカがキューバの国に口出しをして、今度はアメリカと仲が悪くなりました。戦争にはなりませんでしたが、キューバがお金で困るような規則を作り(経済封鎖といいます)、それがずっと続いていました。でも、ようやく、その喧嘩も去年の7月に終わったのです。
 これからのキューバは、変わっていくだろうと思います。簡単なことではないでしょう。読み書きができる人の比率も高く、学校や病院は無料で暮らしの質は決して低くはありませんが、大きな国、とりわけアメリカからの圧迫は様々な仕方で続くことは考えられます。子どもたちや女性が喜んで暮らしていく道はまだまだなのかもしれません。
 神さまの望んでおられる世界とは、まず子どもたちが子どもたちのままで祝福されたところです。子どもたちが喜んで暮らしていくことができないことは、悪です。ここで言われていることは実際の子どもという意味ではありません。弱い人、より弱い立場に置かれている人、あるいは強い国から見て弱い国、「子どもの権利」という基本的な権利からはじかれてしまっている人たちが、もっともっと大切にされなければいけないということです。より弱い立場に置かれている人たちが大切にされなければいけないし、世界の国々の関係でもそうだということです。
 キューバの人たちが自分たちで国を整えていくことができる、そんな国にキューバが変えられていくようにお祈りする日にしましょう。

2016年2月14日 (日)

マルコによる福音書 9章14~29節 「自分を自分として見つめる」

 弟子たちは悪霊を追い出し、癒すことができなかった。その理由とは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(9:29)とあります。弟子たちに欠けていたのは、せっかく委託を受けているにもかかわらず祈りがないことです。このことは、ゲッセマネの園の祈りにも通じるものがあります。自分の無力さのただ中での祈りであり、切なる祈りであることにおいて。
 イエスは23節で「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と答えます。田川建三はここを以下のように訳しています。「もしもできれば、ですと?信じる者には一切が可能だ」と。信じる者には一切が可能、信じてさえいればできないことは何一つないというのです。ただし、ここには注意が必要です。イエスは全能であるとわたしは信じてますが、どのような全能か?主イエスは十字架に貼り付けられた時、罵りを受けます(15:25-32参照)。イエスの全能というのは、ここにあるのです。十字架から降りない仕方において、その全能が現されているのです。ここで十字架から降りてしまったならば、もはやキリストではないのです。全能であるとは言えないのです。
 イエスの全能とは、弱さに赴くところ、より小さきところ、より儚いところに向かっていくところにこそ、全能が現されているのです。いわば、無力さにおいてこそのみ働かれるところにイエスの全能があるのです。そのイエスの全能というものとは、信じる者には一切が可能だ。その応答として、ありうるのは、この父親の姿です。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(9:24)と。息子の病に対しても全く無力であった父親、この人の年齢も息子の年齢も不明です。この症状が出たのは子どもの頃からだったとあれば、少なからずの歳月を考えることができます。短い期間ではないでしょう。その病と親子共々付き合ってきた。色々な努力をしたことでしょう。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という祈りがあれば、信じる者には何でもできるという方向づけがなされるのです。ただ、ここで注意しなければいけないのは、人間の側から信じてさえすれば何でもできるようになるということをは違うだろうということです。
 信仰というものは自分の側から作り出されていくものではないし、その信仰を支える祈りも実はイエスの側から与えられて初めて生まれてくるものなのです。
 病を病として受容されたことにおいて救われていると言えるのではないでしょうか。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という祈りによって既に生まれているところの信仰への道行きにこの人はもう連れ戻されてしまっているのだから、どのような困難な道がこの先あったとしても「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という祈りによって生かされていくのです。

2016年2月 7日 (日)

マルコによる福音書 9章9~13節 「捨てられる神」

 今日の聖書では、先駆者としての洗礼者ヨハネの働きを認められない者が何故、イエスを認めることができるはずがあろうか、という鋭い批判があるのです。紀元後のユダヤ教の中でエリヤの評価が変わってきます。この世の一切が回復され、神の想いに適った世界がやってくる先駆けとしてエリヤがやってくるという信仰理解が生まれていたようなのです。13節の「しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」ということは、エリヤを引き合いにして紹介されている洗礼者ヨハネを認めることができない者がどうして、イエスをキリストとして認められるはずがあろうか、ということです。イエスをキリストとして認められない弟子たちに対して徹底的な非難が語られているのです。エリヤの引用によってヨハネに言及し、そうすることで捨てられていくイエスを強調しているのです。ないがしろにされ、捨てられていくキリストのイメージをテキストが訴えているということです。旧約の伝統を踏まえ、神が捨てられるイメージを強調することにより、このキリストにおいてマルコ福音書の冒頭の言葉である「神の子イエス・キリストの福音の初め。」のあり方を示しているのです(捨てられるイメージは詩編22:2-19とイザヤ書53:3-12参照のこと)。イエスにおいてこそ旧約は成就したのだと。
 ないがしろにされ、捨てられていく神のイメージ。これはイエス・キリストがどのような神であるかを、わたしたちに教えようとしているのです。つまり、この世において、ないがしろにされ、捨てられている者と共にいるのだということです。共にいる仕方で、仲間として、友として、なろうとする意志とはイエスがキリストであるということです。
 わたしたちの頭の中に思い浮かびやすい光り輝く、神々しい神のイメージは偽りであるということです。人間の側からの、知的で敬虔で、信仰深く理解されているような、栄光の神学に対する無効宣言が、主イエスによってなされているのです。絶えず、十字架の神学に立ち返り、ここから始めるようにとの要請と要求があります。
 讃美歌280番『馬槽の中に』の中で歌われているイエスの姿を思い起こしましょう。
 このないがしろにされ、捨てられる仕方でののみ、神は人間に対して抜き差しならない関係において歩み寄ってくださるのです。

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