マルコによる福音書 9章9~13節 「捨てられる神」
今日の聖書では、先駆者としての洗礼者ヨハネの働きを認められない者が何故、イエスを認めることができるはずがあろうか、という鋭い批判があるのです。紀元後のユダヤ教の中でエリヤの評価が変わってきます。この世の一切が回復され、神の想いに適った世界がやってくる先駆けとしてエリヤがやってくるという信仰理解が生まれていたようなのです。13節の「しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」ということは、エリヤを引き合いにして紹介されている洗礼者ヨハネを認めることができない者がどうして、イエスをキリストとして認められるはずがあろうか、ということです。イエスをキリストとして認められない弟子たちに対して徹底的な非難が語られているのです。エリヤの引用によってヨハネに言及し、そうすることで捨てられていくイエスを強調しているのです。ないがしろにされ、捨てられていくキリストのイメージをテキストが訴えているということです。旧約の伝統を踏まえ、神が捨てられるイメージを強調することにより、このキリストにおいてマルコ福音書の冒頭の言葉である「神の子イエス・キリストの福音の初め。」のあり方を示しているのです(捨てられるイメージは詩編22:2-19とイザヤ書53:3-12参照のこと)。イエスにおいてこそ旧約は成就したのだと。
ないがしろにされ、捨てられていく神のイメージ。これはイエス・キリストがどのような神であるかを、わたしたちに教えようとしているのです。つまり、この世において、ないがしろにされ、捨てられている者と共にいるのだということです。共にいる仕方で、仲間として、友として、なろうとする意志とはイエスがキリストであるということです。
わたしたちの頭の中に思い浮かびやすい光り輝く、神々しい神のイメージは偽りであるということです。人間の側からの、知的で敬虔で、信仰深く理解されているような、栄光の神学に対する無効宣言が、主イエスによってなされているのです。絶えず、十字架の神学に立ち返り、ここから始めるようにとの要請と要求があります。
讃美歌280番『馬槽の中に』の中で歌われているイエスの姿を思い起こしましょう。
このないがしろにされ、捨てられる仕方でののみ、神は人間に対して抜き差しならない関係において歩み寄ってくださるのです。
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