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2016年2月14日 (日)

マルコによる福音書 9章14~29節 「自分を自分として見つめる」

 弟子たちは悪霊を追い出し、癒すことができなかった。その理由とは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(9:29)とあります。弟子たちに欠けていたのは、せっかく委託を受けているにもかかわらず祈りがないことです。このことは、ゲッセマネの園の祈りにも通じるものがあります。自分の無力さのただ中での祈りであり、切なる祈りであることにおいて。
 イエスは23節で「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と答えます。田川建三はここを以下のように訳しています。「もしもできれば、ですと?信じる者には一切が可能だ」と。信じる者には一切が可能、信じてさえいればできないことは何一つないというのです。ただし、ここには注意が必要です。イエスは全能であるとわたしは信じてますが、どのような全能か?主イエスは十字架に貼り付けられた時、罵りを受けます(15:25-32参照)。イエスの全能というのは、ここにあるのです。十字架から降りない仕方において、その全能が現されているのです。ここで十字架から降りてしまったならば、もはやキリストではないのです。全能であるとは言えないのです。
 イエスの全能とは、弱さに赴くところ、より小さきところ、より儚いところに向かっていくところにこそ、全能が現されているのです。いわば、無力さにおいてこそのみ働かれるところにイエスの全能があるのです。そのイエスの全能というものとは、信じる者には一切が可能だ。その応答として、ありうるのは、この父親の姿です。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(9:24)と。息子の病に対しても全く無力であった父親、この人の年齢も息子の年齢も不明です。この症状が出たのは子どもの頃からだったとあれば、少なからずの歳月を考えることができます。短い期間ではないでしょう。その病と親子共々付き合ってきた。色々な努力をしたことでしょう。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という祈りがあれば、信じる者には何でもできるという方向づけがなされるのです。ただ、ここで注意しなければいけないのは、人間の側から信じてさえすれば何でもできるようになるということをは違うだろうということです。
 信仰というものは自分の側から作り出されていくものではないし、その信仰を支える祈りも実はイエスの側から与えられて初めて生まれてくるものなのです。
 病を病として受容されたことにおいて救われていると言えるのではないでしょうか。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という祈りによって既に生まれているところの信仰への道行きにこの人はもう連れ戻されてしまっているのだから、どのような困難な道がこの先あったとしても「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という祈りによって生かされていくのです。

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