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2016年1月

2016年1月31日 (日)

マルコによる福音書 9章2~8節 「幻の向こう側に」

 山の上でイエスの姿が変わり、「服は真っ白に輝」いた、とあります。この世のものではない、栄光に満ちたものだというのです。山の上で神の声を聞く律法の代表者としてモーセ、預言者の代表としてエリヤ、このふたりが姿の変わったイエスと語り合っていた、というのは栄光のイエスの証人として立ち会わされているのです。このふたりを遥かに凌ぐ真のメシア、キリストの姿が栄光のうちに現れたということなのです。ペトロの無理解のただなかに、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から「これは、わたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえます。「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。確かに、幻を見るということにおいて、栄光の主をペトロたち3人の弟子たちは確認しました。しかし、そのようにして辺りを見回すことは、イエスを信じ、従うことにはならないのです。あくまで「これに聞け」なのです。キョロキョロ見回すのではなく、しっかり聞け、ということなのです。栄光の主は弟子たちが思い描くような主ではないのです。このイエスにしっかりと聞くことから始めるようにと、マルコ福音書は主張しているのです。
 「これに聞け」という記事に対応しているのは、イエスの洗礼の記事です。「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:11)。イエスが洗礼を受けた時、水から上がるとすぐに、天が裂けて、聖霊がばたばたと騒々しい鳩のように自分に下ってくるのを見た、とあります。それは、天と地とがイエス・キリストにおいて、どのように結ばれたか、を物語るものです(これは、イエスが十字架の上で息を引き取る時の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と対応しています)。
 イエスの生涯は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」の実現でした。しかし、これは誰にとっても容易く客観的に理解されるものではありませんでした。パリサイ派、律法学者、ヘロデの者たち、だけではなくて、イエスの噂を聞いてやってきた人たちにとってもそうでした。さらには、弟子たちにとってさえ、そうだったのです。
 わたしたちは、今日、「これに聞け」という御言葉の迫りを受けています。幻に惑わされてはなりません。十字架の主こその言葉に心を込めて聴くことに集中することが求められているのです。十字架への道行きの主によって現実的に「今ここで」生かされてあることを感謝と実感によって確かめながら歩むことが求められているのです。

2016年1月24日 (日)

マルコによる福音書 8章27節から9章1節 「旅の途上で」

 「サタン、引き下がれ」との言葉は、人間の側から抱くイエス・キリスト像を打ち砕きます。サタンという言葉の激しさに戸惑います。でも「引き下がれ」というのは、あっちへ行け、お前なんかもう知らないよ、お前はもう仲間じゃないから、この仲間から出ていけ、という意味の「引き下がれ」ではないのです。田川建三は「私の後ろにひっこんでいろ」と訳しています。渡辺英俊牧師の訳は「私の後ろに直れ」です。フィリポ・カイザリヤを去っていきながら、ガリラヤでの活動からエルサレムに向かっていくという道筋を主イエス・キリストは見つめ、向いているのです。その向いているイエスの背中に向かって直れ、ということが「引き下がれ」という言葉の持っている意味です。つまり、神のことを思わず、人のことを思ってはいるのだけれど、もう一度イエスの背中を見つめて、イエスの背中に向かって向き直るときに、もう一度、そして何度でもイエス・キリストの歩みに伴っていくことができるのだという招きの言葉が「サタン、引き下がれ」という言葉の示そうとしていることです。
 主イエス・キリストは弟子たちの無理解をわかっていました。にもかかわらず、というよりは、むしろだからこそ何度でも何度でも直れという風に語り続けたのです。やがては弟子たちが自分の逮捕に際して、蜘蛛の子が散らされるように逃げていく、そのようなことも多分ご存知でした。そのような弱さを抱え、その弱さのゆえに不安とか恐れがあって、そのおそれを覆い隠すために、権力であるとか栄光であるとかを求めてしまうような人間の性をもっているのが、後の教会の指導者の一人であるペトロの姿です。
 そのペトロの2000年後の仲間であるわたしたちも、しばしば神の思いよりも自分の思いを優先してしまいます。ですが、主イエスは、このようなわたしたちの現実の弱さというものをすべて分かっていてくださるので、わたしたちは自分の課題、自分の願いというものを率直に神に向かって祈ることは赦されています。困った時の神頼みのようにして何故ですかと訴えかける中で、「サタン、引き下がれ」という言葉をかけられるのです。主イエス・キリストの背中に向かって直れ、という言葉の促しに導かれていく中で、わたしたちは新たな道というものが、それぞれに与えられて示されてくるに違いありません。そこにおいてわたしたちの中に主イエス・キリストに対する信仰というものが整えられていき、何度でも主イエス・キリストに向かって悔い改めていくこと、方向を転じていくということができるに違いないのです。そのような道が絶えず用意されている、と今日の聖書は告げています。

2016年1月10日 (日)

マルコによる福音書 8章11~21節 「理解に至るために」

 キリスト教信仰というのは「まだ悟らないのか」という言葉によって審かれるものであるけれども、実は同時に、守られ育てられるからこそ、この審きの言葉が生きるような、そういう導きの言葉として「まだ悟らないのか」と語られているのではないでしょうか。
 わたしたちは、イエス・キリストの「まだ悟らないのか」という言葉をどういう風に受け止めるかによって信仰生活の方向が変わるだろうと言えます。イエスにおいては、キリスト者一人ひとりに対して、あなたがどのような間違いを犯したとしても、同じ間違いをどのように繰り返したとしても、忍耐しますよ、待ちますよ、という表明なのです。「まだ悟らないのか」という言葉は、お前はダメな奴である、無価値な人間である、理解ができない情けない人間であるという冷たい言葉として受け取る必要はありません。「まだ悟らないのか」という言葉には、イエス・キリストの忍耐、忍耐における優しさ、懐の深さというものが現されています。「まだ悟らないのか」という言葉をわたしたちが心から受け取るならば、この言葉に応えていきましょうとして、さらなる理解へと促されるのです。確かにどのように理解しても免許皆伝とか卒業に至ることの無い信仰生活の途上ではあるけれども、「まだ悟らないのか」という言葉にイエス・キリストの優しさとか慈愛とか暖かさのようなものを読み取ることが赦されるならば、ならばもう一度最初からやり直していこうじゃないかと。
 確かにわたしたちは至らない者であり、弱い者であり、無理解に絶えず晒されています。たとえば新約聖書を読んで、パウロみたいにはなれないかもしれないけれど、ペトロみたいなお調子者に自分を重ね合わせてホッとするようなことがあります。どのようなことがあってもイエスを見捨てる様なことはありませんと言いつつ、真っ先に逃げてしまう情けなさです。けれど、そういうペトロさえも「まだ悟らないのか」と呼ばれるのです。悟らないから逃げてしまったのです。しかし、どこかでイエス・キリストによって赦されてしまっている、守られてしまっているという、そんな感覚があるのです。
 だからこそ、わたしたちは絶えず新しくイエス・キリストという方を知りたい、理解したい、そういう思いにおける信仰が備えられているのです。ですから、わたしたちは、自らを過大評価すべきではありませんし、自らの鈍さとか無理解さとか弱さを自覚していれば、それらを必要以上に卑下する必要も、恥じる必要もありません。「まだ悟らないのか」このように語りかけるイエス・キリストに暖かい心を受け止めていくならば、きっと何度でも新たに新しい一歩を踏み出していく、そのような理解へと至る道が備えられているに違いありません。

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