« マルコによる福音書 8章27節から9章1節 「旅の途上で」 | トップページ | マルコによる福音書 9章9~13節 「捨てられる神」 »

2016年1月31日 (日)

マルコによる福音書 9章2~8節 「幻の向こう側に」

 山の上でイエスの姿が変わり、「服は真っ白に輝」いた、とあります。この世のものではない、栄光に満ちたものだというのです。山の上で神の声を聞く律法の代表者としてモーセ、預言者の代表としてエリヤ、このふたりが姿の変わったイエスと語り合っていた、というのは栄光のイエスの証人として立ち会わされているのです。このふたりを遥かに凌ぐ真のメシア、キリストの姿が栄光のうちに現れたということなのです。ペトロの無理解のただなかに、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から「これは、わたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえます。「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。確かに、幻を見るということにおいて、栄光の主をペトロたち3人の弟子たちは確認しました。しかし、そのようにして辺りを見回すことは、イエスを信じ、従うことにはならないのです。あくまで「これに聞け」なのです。キョロキョロ見回すのではなく、しっかり聞け、ということなのです。栄光の主は弟子たちが思い描くような主ではないのです。このイエスにしっかりと聞くことから始めるようにと、マルコ福音書は主張しているのです。
 「これに聞け」という記事に対応しているのは、イエスの洗礼の記事です。「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:11)。イエスが洗礼を受けた時、水から上がるとすぐに、天が裂けて、聖霊がばたばたと騒々しい鳩のように自分に下ってくるのを見た、とあります。それは、天と地とがイエス・キリストにおいて、どのように結ばれたか、を物語るものです(これは、イエスが十字架の上で息を引き取る時の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と対応しています)。
 イエスの生涯は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」の実現でした。しかし、これは誰にとっても容易く客観的に理解されるものではありませんでした。パリサイ派、律法学者、ヘロデの者たち、だけではなくて、イエスの噂を聞いてやってきた人たちにとってもそうでした。さらには、弟子たちにとってさえ、そうだったのです。
 わたしたちは、今日、「これに聞け」という御言葉の迫りを受けています。幻に惑わされてはなりません。十字架の主こその言葉に心を込めて聴くことに集中することが求められているのです。十字架への道行きの主によって現実的に「今ここで」生かされてあることを感謝と実感によって確かめながら歩むことが求められているのです。

« マルコによる福音書 8章27節から9章1節 「旅の途上で」 | トップページ | マルコによる福音書 9章9~13節 「捨てられる神」 »

マルコによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルコによる福音書 9章2~8節 「幻の向こう側に」:

« マルコによる福音書 8章27節から9章1節 「旅の途上で」 | トップページ | マルコによる福音書 9章9~13節 「捨てられる神」 »

無料ブログはココログ