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2016年1月10日 (日)

マルコによる福音書 8章11~21節 「理解に至るために」

 キリスト教信仰というのは「まだ悟らないのか」という言葉によって審かれるものであるけれども、実は同時に、守られ育てられるからこそ、この審きの言葉が生きるような、そういう導きの言葉として「まだ悟らないのか」と語られているのではないでしょうか。
 わたしたちは、イエス・キリストの「まだ悟らないのか」という言葉をどういう風に受け止めるかによって信仰生活の方向が変わるだろうと言えます。イエスにおいては、キリスト者一人ひとりに対して、あなたがどのような間違いを犯したとしても、同じ間違いをどのように繰り返したとしても、忍耐しますよ、待ちますよ、という表明なのです。「まだ悟らないのか」という言葉は、お前はダメな奴である、無価値な人間である、理解ができない情けない人間であるという冷たい言葉として受け取る必要はありません。「まだ悟らないのか」という言葉には、イエス・キリストの忍耐、忍耐における優しさ、懐の深さというものが現されています。「まだ悟らないのか」という言葉をわたしたちが心から受け取るならば、この言葉に応えていきましょうとして、さらなる理解へと促されるのです。確かにどのように理解しても免許皆伝とか卒業に至ることの無い信仰生活の途上ではあるけれども、「まだ悟らないのか」という言葉にイエス・キリストの優しさとか慈愛とか暖かさのようなものを読み取ることが赦されるならば、ならばもう一度最初からやり直していこうじゃないかと。
 確かにわたしたちは至らない者であり、弱い者であり、無理解に絶えず晒されています。たとえば新約聖書を読んで、パウロみたいにはなれないかもしれないけれど、ペトロみたいなお調子者に自分を重ね合わせてホッとするようなことがあります。どのようなことがあってもイエスを見捨てる様なことはありませんと言いつつ、真っ先に逃げてしまう情けなさです。けれど、そういうペトロさえも「まだ悟らないのか」と呼ばれるのです。悟らないから逃げてしまったのです。しかし、どこかでイエス・キリストによって赦されてしまっている、守られてしまっているという、そんな感覚があるのです。
 だからこそ、わたしたちは絶えず新しくイエス・キリストという方を知りたい、理解したい、そういう思いにおける信仰が備えられているのです。ですから、わたしたちは、自らを過大評価すべきではありませんし、自らの鈍さとか無理解さとか弱さを自覚していれば、それらを必要以上に卑下する必要も、恥じる必要もありません。「まだ悟らないのか」このように語りかけるイエス・キリストに暖かい心を受け止めていくならば、きっと何度でも新たに新しい一歩を踏み出していく、そのような理解へと至る道が備えられているに違いありません。

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