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2015年12月

2015年12月 6日 (日)

ルカによる福音書 1章46~56節 「賛美に生きる」

 「あがめる」というのは、相手を大きくすることです。自分よりも大きくするのです。しかし、ここで注意したいのは、神を大きくするために、必要以上に自分を愚か呼ばわりしたり、自己卑下して、あがめているのではないということです。日本では「謙遜」が美徳とされ、確かにある程度の「謙遜」は人間関係を築く上で必要なものです。しかし、私たちが陥りがちな必要以上の自己卑下は、むしろ神を冒涜する傲慢さに由来することは自覚しておく必要があります。
 マリアは、わざわざ演出しなくても、すでに弱い立場です。マリアの受胎とは、確かに神の霊において身ごもったと聖書は証言するのですが、このマリアの時代においては婚約とは結婚と同様のことでしたから、律法に従うと、ヨセフを知らずに身ごもることは姦通罪が適用され石打の刑にされることを意味するものでした。これはスキャンダルであるわけで、身分の低いというより、「卑しいはしため」、この卑しさを神はあえて選んだということなのです。だからこそマリアは「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)。と心から歌うことができるのです。
 神は「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」(48節)。神をあがめる、たたえることは、神がどこに目を留められ、どこに向かって思いを遂げようとされているかがしらされ、これを心の底から受け止めるときに起こされます。
 マリアは、自らに起こった神の思いを、それが理不尽なことであっても、思い巡らせ続けます。お言葉どおりになりますようにと神への受身の姿勢を貫くと同時に、この信仰において応答していこうとします。この自分の貧しい身に神の意思が働いていることから、神は貧しさ、弱さ、苦しみ、差別など困難の中にある者に差し向かうことで神になろうとされる神であるということです。苦しみに伴われるために低いところの極みに共に立ち、そして共に歩んでくださるというのです。だからこそ、マリアは次のように歌うことができるのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く引き上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(51‐53節)。
 主イエス・キリストの降誕によって齎される世界観、それがわたしたちの世界に肉をまとい来られる時に起こされるのは、人間の常識や基準や価値観が根っこのところから覆されるのです。
マリアの歌に心を合わせることは、何かしらの神々しさやロマンティックな思いに浸ることでは決してありません。賛美に生きることとは、が生まれてくるイエス・キリストの思い、低みにこそ目を留められ働かれる神への思いに生きることなのではないでしょうか?「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く引き上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。
 この方向にこそ「賛美に生きる」ことなのだと今日の聖書は告げています。わたしたちは、どのようにしてクリスマスを待ち、祝うのか?その質が問われているのです。

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