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2015年11月

2015年11月29日 (日)

詩編130:1-8 「待つことを学ぶために」

 QOLは、人生の質、生活の質の略語です。QOLを考えるときに、悩み、痛み、苦しみというものをマイナス・消極的意味ではなくて、積極的なもの・そこには意味がある、ということを受け止めていく中で、QOLを深めていくことになるのではないか、という流れに変わりつつあるのです。
 この詩人は非常な絶望の淵におかれていることが分かります。しかし、絶望を口にすることのできる前提には神の存在があります。聖書のテキストを読むときにしばしば行われる方法がありますが、最後から読むというものです。詩編だと分かりやすいですが、たとえば、7節と8節を読んでおいて1節から読み直してみると筋が出てくることがあります。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。(7-8節)」 
 「深い淵」とは黄泉と呼ばれる地の底、奥深くであったかもしれないし、深く険しい谷底であるかもしれない。光が届かないようなところであって、自分の力では抜け出すことができない、どん底であったかもしれない。そこから、「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。(2-4節)」
 5節以降で「待つこと」が強調されます。「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。(5節)」。さらに「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。(6節)」とは、神による支えによって力づけられ、待つ力が備えられるのです。
 暗闇、夜明け前の一番暗い時間帯、ただひたすらに一筋の光を待つ見張りが待ち続けるのだと。痛み、悩み、苦しみ、病、様々な困難、解決不能であるかのような事態、絶望しか呼べないような事態にあっても、神はいらっしゃるということによって、呼ばわり祈ることが赦されていることによって、その人生の意義というもの、人生の質というものを問うていこうとする態度、このことがクリスマスを待つ態度でもあろうかと思います。
 イエス・キリストの神を前提としたQOLを求め、クリスマスを待つということにおいて、待つことを学び、より祝福されたあり方へと変えられていくようにと願っています。

2015年11月22日 (日)

レビ記 19章9~10節 「『落穂ひろい』の復権」

~収穫感謝礼拝~
 旧約の理解に従えば、収穫に際しての「落穂ひろい」の伝統は神の前にあって分かちあうことなのだと知らされます(申命記26章などを参照)。
 現代の状況は、今日のテキストでもある旧約聖書の記述が全くの昔話にはなっていないことが分かります。
 この地球の大地には全世界の人々を十分食べさせるだけの食物を養う力が与えられています。しかし、分配や資本の力の無常によって飢餓が切実な問題として確実にあり、明確な解決策があるとは言えない状況なのです。世界的な規模における飢餓は、大地が貧困だということを意味しません。大国の資本からの搾取や利害関係などから戦争や紛争が絶えることなく耕される大地があらされているからに他なりません。
 さらに言えば、飢餓につながる貧困の現実はアフリカなどの紛争地域だけではありません。日本でも安倍政権の目指す方向性の皺寄せはより弱いところに及び、飢餓と隣り合わせに生きる人々が加速的に増えています。たとえば、子どもの貧困です。国内で貧困状態にある17歳以下の子どもの割合は16.3%。実に6人に1人に上り、過去最悪を更新し続けています。給食で何とか飢えずに済んでいる子どもたちは増えています。こうした中、今『子ども食堂』と呼ばれる運動が注目を集めています。無料または格安で食事を提供しているのです。利用しているのは、共働きで食事の支度をする余裕のない家庭や、経済的に苦しいシングルマザーの子どもなど、さまざまです。旧約のあの律法のように。
 収穫を感謝していく生き方とは、世界的に考えれば大資本による収奪搾取を辞めさせていくことだと思いますが、ローカルから考えると公平な交易を図るとか、分配の方法を模索していくことだろうと思います。神奈川教区の寿地区センターの関わる炊き出しもその一つでしょう。
 JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)がしばらく前まで使っていたコピーは「分ければ増える」でした。イエスがなさったパンを分けることで飢えている人たちが満腹したという奇跡物語を念頭においたものです。イエスが飢えている人々が幸いだと宣言したのは現状肯定ではないでしょう。飢えの現状を打破していくという決意表明ないしは宣言として受け止めるべきなのではないでしょうか?でなければ、主の祈りで「日用の糧を今日も与えたまえ」の意味が不明確になります。今日食べるべきパンを今ください、そう祈らざるをえない、いと小さくされたところに主イエスは共にいようとする仕方でこそ、全能の神として立場を明らかにしているのですから。ここに「落穂ひろい」の復権を願い、共に祈りましょう。

2015年11月15日 (日)

マルコによる福音書 9章33~37節 「イエスさまの心」 

~子どもとおとなの合同礼拝~
 弟子たちは、誰が一番イエスに近いか?ということで言い争っていました。けれど主イエスは大切なのはそんなことではないと言います。それから、一人の子どもを抱き上げました。子どもを抱き上げるイエスの姿から、わたしたちはイエスの心を知るようにと求められているのです。一人の子どもを丸ごとで受け止めることこそが、神の心、その思いなのだということです。
 歳を取ると時間が経つのが速く感じられるようになってきます。一度見たり、経験したりした記憶によって時間を新しく感じることができなくなるので、新しい経験とか興味を持つ時間が省略されるからだという説があります。分かっているから新しく経験する必要がないと無意識に受け止めてしまうということでしょう。
 子どもの目に映る世界は何もかも新しくて、不思議なので、知りたいという気持ちが強いのでしょう。新しいことを知りたい気持ちを好奇心と言います。この好奇心について分かりやすく描かれている絵本があります。子どもに大人気の「おさるのジョージ」シリーズです。第1巻の「ひとまねこざる」から少し紹介します。
 ある日、ジョージは動物園から抜け出しバスの屋根に飛び乗って街に出ます。曲がり角で飛び降りると目の前には食堂があっていい匂いがしてきます。つられて中に入るとテーブルの上の大きな鍋のふたを開けてみたくなります。開けるとスパゲティが入っていました。食べ散らかしているところをコックさんに見つかってしまいます。コックさんは両手両足を使って器用に皿ふきをするジョージに、ビルの窓ふきの仕事を紹介してくれました。窓ふきをしていると、部屋の中でペンキ屋さんが壁や家具を塗っているのが気になって仕方がありません。ペンキ屋さんがお昼を食べに行ったすきに部屋に入って絵を描き、部屋中をジャングルのようにしてしまいます。戻って来たペンキ屋さんから逃げるうち、ジャングルと違って固い地面に飛び降りて骨を折り入院することになります。さて、歩けるようになると病院の中を探検。きれいな青い瓶が気になってふたを開け、臭いを嗅いでしまいます。麻酔の薬だったので、やがて気を失ってしまいます。こんなことの連続なのです。気になるものを確認してみないと気が済まないのです。
 ジョージのような「何故」「どうして」という好奇心、ワクワクする楽しさをもち続けること、子どもの心を失わないことが、「子どもを受け入れる」ということなのではないでしょうか。子どももおとなも、「何故」「どうして」と問い続け、考え続けていくことが、神さまの子どもとして主イエスの心を受け継ぐことになるのでしょう。

2015年11月 1日 (日)

マルコによる福音書 7章24~30節 「気付くということ」

 今日の聖書を読むと、何だか意外な感じがします。幼い娘が汚れた霊に憑かれていることを助けたいと母親が頼みにやってきたのですが、外国人であるという理由でイエスは拒絶しているのです。イエスは「ユダヤ人の男」という差別者側の属性から自由になりきれなかったのでしょう。27節では次のように語ります。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」これは、子どもとはユダヤ人、子犬とは異邦人を意味します。イエスの言葉は、この女性に対して、お前なんかを相手にしている時間もないのだということになります。自分の休みたい感情が強かったのか、それほど疲れていて自制が利かなかったのでしょうか。
 そこで、女性の反撃です。28節「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。犬呼ばわりされるような軽蔑を日常的に受けている人たちのしたたかさというか逞しさや生き抜くための庶民の知恵なのでしょうか。そうはおっしゃいますが、子犬だって溢してしまったパンくずを拾って食べても問題はないはずです。そもそもゴミになるものですからね。それくらいならいただいても構いませんよねえ、と。娘を癒す時間は、パンくずのようにこぼれているほどのわずかなものであるという「気付き」がイエスに起こされたのです。この女性は旧約の「落穂ひろい」についての知識があったのかもしれません(レビ記19:9-10)。この律法のイメージからすれば、落ちたパンくずは元の持ち主から所有権を失うことになります。癒しの宣言を行います。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(7:29)こうして物語は完結します。ウィット、機転を利かせた女性の一言によってイエスはノックアウトだったのです。イエスが論争で負けたのは、ここだけです。
 ここで、さらに重要なのは女性の言葉によって「気付き」が呼び起こされ、イエスの態度が変わったということです。イエス・キリストは全能だと信じていますが、今日の聖書のように「気付く」姿があるからこそ、イエスはキリストなのです。
 女性差別や外国人差別に対して開かれた態度のお手本が、ここにはあります。自分自身のこれまで培ってきた価値観や正義や生き方を相手との対話の中で自己相対化する姿勢です。「気付き」によって自己相対化出来る者こそ、イエスに近いのです。
 今日の聖書は、差別の現実に対するキリスト者の立ち位置が示されています。対話によって相対化しつつ歩むあり方、新しい人間関係のありようが開かれているという希望が、物語を通して語られているのです。

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