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2015年11月15日 (日)

マルコによる福音書 9章33~37節 「イエスさまの心」 

~子どもとおとなの合同礼拝~
 弟子たちは、誰が一番イエスに近いか?ということで言い争っていました。けれど主イエスは大切なのはそんなことではないと言います。それから、一人の子どもを抱き上げました。子どもを抱き上げるイエスの姿から、わたしたちはイエスの心を知るようにと求められているのです。一人の子どもを丸ごとで受け止めることこそが、神の心、その思いなのだということです。
 歳を取ると時間が経つのが速く感じられるようになってきます。一度見たり、経験したりした記憶によって時間を新しく感じることができなくなるので、新しい経験とか興味を持つ時間が省略されるからだという説があります。分かっているから新しく経験する必要がないと無意識に受け止めてしまうということでしょう。
 子どもの目に映る世界は何もかも新しくて、不思議なので、知りたいという気持ちが強いのでしょう。新しいことを知りたい気持ちを好奇心と言います。この好奇心について分かりやすく描かれている絵本があります。子どもに大人気の「おさるのジョージ」シリーズです。第1巻の「ひとまねこざる」から少し紹介します。
 ある日、ジョージは動物園から抜け出しバスの屋根に飛び乗って街に出ます。曲がり角で飛び降りると目の前には食堂があっていい匂いがしてきます。つられて中に入るとテーブルの上の大きな鍋のふたを開けてみたくなります。開けるとスパゲティが入っていました。食べ散らかしているところをコックさんに見つかってしまいます。コックさんは両手両足を使って器用に皿ふきをするジョージに、ビルの窓ふきの仕事を紹介してくれました。窓ふきをしていると、部屋の中でペンキ屋さんが壁や家具を塗っているのが気になって仕方がありません。ペンキ屋さんがお昼を食べに行ったすきに部屋に入って絵を描き、部屋中をジャングルのようにしてしまいます。戻って来たペンキ屋さんから逃げるうち、ジャングルと違って固い地面に飛び降りて骨を折り入院することになります。さて、歩けるようになると病院の中を探検。きれいな青い瓶が気になってふたを開け、臭いを嗅いでしまいます。麻酔の薬だったので、やがて気を失ってしまいます。こんなことの連続なのです。気になるものを確認してみないと気が済まないのです。
 ジョージのような「何故」「どうして」という好奇心、ワクワクする楽しさをもち続けること、子どもの心を失わないことが、「子どもを受け入れる」ということなのではないでしょうか。子どももおとなも、「何故」「どうして」と問い続け、考え続けていくことが、神さまの子どもとして主イエスの心を受け継ぐことになるのでしょう。

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