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2015年11月 1日 (日)

マルコによる福音書 7章24~30節 「気付くということ」

 今日の聖書を読むと、何だか意外な感じがします。幼い娘が汚れた霊に憑かれていることを助けたいと母親が頼みにやってきたのですが、外国人であるという理由でイエスは拒絶しているのです。イエスは「ユダヤ人の男」という差別者側の属性から自由になりきれなかったのでしょう。27節では次のように語ります。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」これは、子どもとはユダヤ人、子犬とは異邦人を意味します。イエスの言葉は、この女性に対して、お前なんかを相手にしている時間もないのだということになります。自分の休みたい感情が強かったのか、それほど疲れていて自制が利かなかったのでしょうか。
 そこで、女性の反撃です。28節「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。犬呼ばわりされるような軽蔑を日常的に受けている人たちのしたたかさというか逞しさや生き抜くための庶民の知恵なのでしょうか。そうはおっしゃいますが、子犬だって溢してしまったパンくずを拾って食べても問題はないはずです。そもそもゴミになるものですからね。それくらいならいただいても構いませんよねえ、と。娘を癒す時間は、パンくずのようにこぼれているほどのわずかなものであるという「気付き」がイエスに起こされたのです。この女性は旧約の「落穂ひろい」についての知識があったのかもしれません(レビ記19:9-10)。この律法のイメージからすれば、落ちたパンくずは元の持ち主から所有権を失うことになります。癒しの宣言を行います。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(7:29)こうして物語は完結します。ウィット、機転を利かせた女性の一言によってイエスはノックアウトだったのです。イエスが論争で負けたのは、ここだけです。
 ここで、さらに重要なのは女性の言葉によって「気付き」が呼び起こされ、イエスの態度が変わったということです。イエス・キリストは全能だと信じていますが、今日の聖書のように「気付く」姿があるからこそ、イエスはキリストなのです。
 女性差別や外国人差別に対して開かれた態度のお手本が、ここにはあります。自分自身のこれまで培ってきた価値観や正義や生き方を相手との対話の中で自己相対化する姿勢です。「気付き」によって自己相対化出来る者こそ、イエスに近いのです。
 今日の聖書は、差別の現実に対するキリスト者の立ち位置が示されています。対話によって相対化しつつ歩むあり方、新しい人間関係のありようが開かれているという希望が、物語を通して語られているのです。

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