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2015年10月

2015年10月25日 (日)

詩編22:20 「神さまにお祈りしよう」

~キリスト教教育週間(子どもとおとなの合同礼拝)

 今日は、ケニアとウガンダの子どもたちが学校に行けるよう、また仕事ができるように支援をしている「アルディナ・ウペポ(大地と風)」の活動を覚えて礼拝します。アフリカという大きな大陸の東側にあるケニアもウガンダも、お金をたくさん持っている人と持っていない人の差がとても大きい国です。また、国の中で戦争があったりして大変です。特に酷いのは、子どもたちが強制的に兵隊にされて、人を殺したり殺されたりするような状態が長く続いてきました。基本的には、その国のことはその国に暮らしている人たちが話し合いによって決めていくのが筋だと思います。しかし、なかなか難しい時に、他の国の人たちが少しでもその国の人たちの幸せのためにお手伝いすることはできると思います。
 不安定な社会の中で、一番身体も心も傷つけられ、痛めつけられるのは子どもたちです。その子どもたちの<いのち>を守り、支える働きの一つがアルディナ・ウペポなのです。子どもの<いのち>が大切にされる社会が良い社会であるし、神が望んでおられるはずなのです。今日の聖書は詩編22:20です。「主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。」この祈りは、ケニアやウガンダの子どもたちの願いそのものでしょう。まずは、わたしたちもこの祈りに心を合わせたいと思います。
 この22編という詩は絶望の言葉から始まります。2節には次のようにあります。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」と。しかし後半に向かって、段々と調子が変わってくるのです。今日の20節を挟み、25節ではこう歌います。「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。」
 日本という国は、アフリカを搾取している事実を否定できないけれども、だからこそ小さな種を蒔く道へと導かれていきたいし、アフリカで種を蒔くアルディナ・ウペポのことも覚えておきたいです。とりもなおさず、そこの国々で暮らしている子どもたちのことを覚えて祈ること、わたしたちは「神様にお祈りしよう」ということで心を合わせていくようにと導かれているし、促されているのです。
 決して絶望のまま終わることはなく、神さまのお守りを信じて祈り続けていきましょう。

2015年10月18日 (日)

マルコによる福音書 7章1~23節 「権威を笑い飛ばせ」

 「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。』」(7:15)とは、痛烈な皮肉です。このニュアンスを意訳すれば、自称律法を守っていて自らを「聖い」と考える人たちは立派なものだよ、聖なる食物を聖なる人たちと聖なる仕方で食べることで体に聖なるものを入れることで聖さを保っているのだね、見上げたものだ、りっぱなものだね、さぞあなたがたの体から出てくる排泄物、ウンチはさぞかし神々しくて聖いものなのだろうね。こんな感じでしょうか?
 この論争の場に居合わせた律法を守らない、守れないことで穢れたと日毎に断罪されている人々にとっては、スカッとするような爽快で明快な言葉として聴かれたであろうと思われます。想像すると爆笑の渦に包まれたのだろうと思うのです。あれだけ、毎日毎日「お前たちは穢れているが、俺たちは聖いのだ」そのように主張している人たちを一瞬で相対化してしまうような言葉が、ここにはあるのです。
 当時の常識とか社会の基礎とされ、信じられている規範、それを笠に着ている権威を一言で相対化することによって、笑い飛ばしていく生き方、ここに庶民の知恵があります。「斯く斯く云々の理由で」という理屈は、議論に乗る仕方で前提として権威とか権力を認めてしまうのです。そうではなく、彼らの議論の前提さえも相対化しうる視座からの発言だと読み取るべきなのです。
 日々虐げられる庶民が生き抜く知恵とは、権威や権力を笑い飛ばして行くところに、その生き方があります。イエスこそ、その笑いに生きた人であったと考えられます。
 今日の聖書の語るイエスの生き方とは、権威や権力を笑い飛ばすことによって、それらを相対化することでしょう。権力を笑い飛ばす「ワザ」とヒントを与えてくれる本があります。佐高信・松元ヒロ『安倍政権を笑い倒す』(角川新書)
 わたしたちは、非常に硬直した日本という国に暮らしています。戦争法案が可決されていく過程を見ていると大変危険な時代であると実感しています。だからこそ、今こそイエスに基づく、権威を笑い飛ばす生き方に向かって観察力と想像力をもって歩んでいく決意が求められているのではないでしょうか?
 笑い飛ばすことで何が変わるのか、そんな問いも生まれてくるかもしれません。しかし、戦争を中心として国を動かしていこうとするあり方に抗する生き方として、笑いの意義を今一度再構築する季節にいるのだという自覚のもと、主イエスに従う者として整えられたいと願っています。

2015年10月11日 (日)

ルカによる福音書 2章22~38節 「シメオンの信仰に倣って」沼田弘行 神学生(農村伝道神学校)

 ベツレヘムで誕生したイエスは、ユダヤの習慣に従って、8日目に割礼を受け、イエスと名づけられました。最初の男の子は生まれて40日目に、エルサレム神殿において、ユダヤの律法と、モーセの故事に倣って、男の子を神のものとして、神に献げられました。普通であれば1歳の雄の子羊1匹と山鳩か家鳩が献げられるのですが、貧しい人は、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽を犠牲として献げたのでした。
 この時エルサレム神殿ではシメオンと女預言者アンナが、救い主が来られるのを待っていました。シメオンは、聖霊のお告げにより「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と語られていたのです。多くのユダヤ人たちが神さまを信じ、メシアの到来を待っていると語りながらも、律法をおろそかにしたり、律法主義に陥ったりする中、シメオンは、たとえどんな悪い時でも決してたじろぐことの無い強い信仰と希望を持っていました。神を畏れ、つつましく生活をしている人でした。
 シメオンは、幼子イエスを見つけ腕に抱き、そして神を讃えて、「主よ、今こそ、あなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と語ります。この時、シメオンは、主なる神さまの救いを見たのです。主なる神さまによる救いを確信したのです。ここにシメオンの喜び、平安があるのです。
 救い主イエス・キリストに出会うことは、救いであり、恵みです。この救いが、目前に肉体の死を控えている老人に与えられたのです。救いとは、死を超えて働く力であり、肉体の消滅のみで終わるのではなく、肉体の死を超えて永遠の生命が与えられることです。
 シメオンとアンナの信仰に倣って、礼拝と祈りに励みましょう。忍耐強く、神を待ち望む者に、神は栄光と希望を約束されます。

2015年10月 4日 (日)

マルコによる福音書 6章53~56節 「過去から未来を展望する今」 

 「そこへ病人を床に乗せて運び始めた」という言葉で想像できるのは中風の人の癒しの記事です。この記事のイメージを引きずって、イエスのところに癒してもらうために病人を運んでくることが繰り返されたことを示しています。さらには、「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った」。触れた者は皆いやされた。これは12年間出血の止まらなかった女性がいて、せめてイエスの服にでも触れば直してもらえるだろうと思っての行動が思い起こされます。
 癒しというのはただ単に病気を治したということではなくて、もう少し社会的な広がりを持ったものです。生きながらにして屍のようにして扱われている人たちです。この世において無価値なものであると、この社会から排除されるべき存在であると。このようにして扱われた人たちを「もう一度あなたが生きるべき場所に、整えて戻してあげる」そういう働きでもあったわけです。つまり、荒井献によれば「社会復帰」です。「汚れた存在」とされていた判断基準をイエスは癒しという行為において、無効にする、その差別は無効である、と宣言したのです。宗教社会ないしはその価値観、その当時の世界観を相対化することによって、もう一度その人の生きるべき場所を作っていこうじゃないか、ということを志したのです。「汚れた」と言われている根拠は旧約聖書のレビ記です。人間の体という小宇宙と外界の境界としての皮膚があいまいになっている状態。これは出血など体液が外に出るという問題も汚れと関わってきます。出血の止まらない女性の話もそうです。こういう人たちは宿営の外に、という教えになっているのです。本来、人々の温かい眼差しを受けながら生きていくのが人の生きる場所です。その温かいまなざしが、突き刺さるような冷たい眼差しとなり、追い出されていく状況に対してイエスは、そうではない、あなたはこちらにいる人ですよ、一緒に生きていきましょう、と取り戻していったのです。これがイエスの癒しの物語にはあるのです。
 イエスの癒しの業というのは、同時に食べられない状況というのも克服していこうじゃないかという働きでした。とすると、差別という構造悪によって安定が与えられている社会にとって不安要素、または脅威になりますから、当時の宗教的指導者、政治的支配者たちはイエスに対して殺意を抱くのです。つまり、イエスの癒しの行為は律法違反ですし、イエスの食卓は穢れたものであるのです。罪人ら、徴税人と食卓を共にするというのは、汚れた食卓をイエスが主宰することです。イエスはしばしば穢れたとされる病人に触れます。触れるということは、穢れが移る、つまりイエスは穢れを自らの身に負うのです。あえてイエスは穢れた食卓を囲みながら、触れ合いながら、穢れ事態とか神からの呪いと考えられ信じられている事柄に対する無効宣言を行うのです。穢れと神の呪いをイエスは自らに負う仕方でです。誰もが喜んで食べて、誰彼も資格を問われず、イエスがそこにいるということによって、喜ばしい命が一人ひとりに与えられていて一緒に食卓を祝うということ。これがイエスの生き方です。

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