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2015年10月 4日 (日)

マルコによる福音書 6章53~56節 「過去から未来を展望する今」 

 「そこへ病人を床に乗せて運び始めた」という言葉で想像できるのは中風の人の癒しの記事です。この記事のイメージを引きずって、イエスのところに癒してもらうために病人を運んでくることが繰り返されたことを示しています。さらには、「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った」。触れた者は皆いやされた。これは12年間出血の止まらなかった女性がいて、せめてイエスの服にでも触れば直してもらえるだろうと思っての行動が思い起こされます。
 癒しというのはただ単に病気を治したということではなくて、もう少し社会的な広がりを持ったものです。生きながらにして屍のようにして扱われている人たちです。この世において無価値なものであると、この社会から排除されるべき存在であると。このようにして扱われた人たちを「もう一度あなたが生きるべき場所に、整えて戻してあげる」そういう働きでもあったわけです。つまり、荒井献によれば「社会復帰」です。「汚れた存在」とされていた判断基準をイエスは癒しという行為において、無効にする、その差別は無効である、と宣言したのです。宗教社会ないしはその価値観、その当時の世界観を相対化することによって、もう一度その人の生きるべき場所を作っていこうじゃないか、ということを志したのです。「汚れた」と言われている根拠は旧約聖書のレビ記です。人間の体という小宇宙と外界の境界としての皮膚があいまいになっている状態。これは出血など体液が外に出るという問題も汚れと関わってきます。出血の止まらない女性の話もそうです。こういう人たちは宿営の外に、という教えになっているのです。本来、人々の温かい眼差しを受けながら生きていくのが人の生きる場所です。その温かいまなざしが、突き刺さるような冷たい眼差しとなり、追い出されていく状況に対してイエスは、そうではない、あなたはこちらにいる人ですよ、一緒に生きていきましょう、と取り戻していったのです。これがイエスの癒しの物語にはあるのです。
 イエスの癒しの業というのは、同時に食べられない状況というのも克服していこうじゃないかという働きでした。とすると、差別という構造悪によって安定が与えられている社会にとって不安要素、または脅威になりますから、当時の宗教的指導者、政治的支配者たちはイエスに対して殺意を抱くのです。つまり、イエスの癒しの行為は律法違反ですし、イエスの食卓は穢れたものであるのです。罪人ら、徴税人と食卓を共にするというのは、汚れた食卓をイエスが主宰することです。イエスはしばしば穢れたとされる病人に触れます。触れるということは、穢れが移る、つまりイエスは穢れを自らの身に負うのです。あえてイエスは穢れた食卓を囲みながら、触れ合いながら、穢れ事態とか神からの呪いと考えられ信じられている事柄に対する無効宣言を行うのです。穢れと神の呪いをイエスは自らに負う仕方でです。誰もが喜んで食べて、誰彼も資格を問われず、イエスがそこにいるということによって、喜ばしい命が一人ひとりに与えられていて一緒に食卓を祝うということ。これがイエスの生き方です。

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