マルコによる福音書 6章45~52節 「幽霊なんかじゃないよ」
イエスは陸に一人残り弟子たちを舟で向こう岸に先に行かせた、とあります。しかし、弟子たちは一晩中漕ぎ悩み、夜明け前(=一番暗い時間帯)、そこに水の上をイエスが歩いてきたというのです。弟子たちは幽霊だと思ったのでした。
イエスが「そばを通り過ぎようとされた」とありますが、これは「出エジプト」前夜の「過越し」のイメージです。神が、ユダヤの家々を通り過ぎてエジプトの家にのみ災いを起こされた出来事です。神が現臨する、神は現れる、そして働かれる、というところにあります。文脈ではイエスが陸地にいて祈っておられたとあります。そして漕ぎ悩んでいる弟子たちに向かって幽霊に見える姿で登場して、通り過ぎるようにして現臨する、現れる。つまり、イエスの祈りというのは弟子たちが漕ぎ悩んでいる、なかなか前進できない、その様に対して執り成しです。イエス・キリストが現臨する、漕ぎ悩む弟子たちへの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という呼びかけによって、イエスの祈りが実体となったという物語です。
まずイエス・キリストの祈りにおいて執り成しがここにあって、幽霊のように見えるものではなくて、生きたキリストとして、今も、かつてそうであったように「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださるキリストが、わたしたちの生きる根拠の言葉なのだということです。
確かに、そこにイエスが現れたら幽霊だと思って恐れるのは当然です。しかし、イエス・キリストが通り過ぎる仕方で現れるときにおいて、かつて神を見たら死んでしまうという恐れをモーセは持っていました。そのような意味においてイエス・キリストを恐れるべきです。そして、そのイエス・キリストがかつて語られた「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉は復活のキリストが今生きて教会という場、もしくはわたしたちの知らない場所でさえ働いているのです。今のこととしてイエス・キリストの復活の力が臨んでおられるのだということを、絶えず心に刻むようにとの促しが今日の聖書です。
今日の記事の直前、おそらく1万人以上の人たちと共に食卓を囲み、お互いの命を喜び合う、あの出来事が決して過去の閉じられた出来事ではなかったように、今日の物語も、今のこととして聴かねばなりません。今漕ぎ悩んでいる舟、そこに所属する一人ひとりが焦りを覚えたり、不安を覚えたり、何故こんなに一生懸命やっても前が見えてこないのか、何故希望が湧いてこないのか、このような中にあって立ち返るべき事柄とは何か。それを証言するために、イエス・キリストは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。
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