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2015年9月

2015年9月27日 (日)

マルコによる福音書 6章45~52節 「幽霊なんかじゃないよ」

 イエスは陸に一人残り弟子たちを舟で向こう岸に先に行かせた、とあります。しかし、弟子たちは一晩中漕ぎ悩み、夜明け前(=一番暗い時間帯)、そこに水の上をイエスが歩いてきたというのです。弟子たちは幽霊だと思ったのでした。
 イエスが「そばを通り過ぎようとされた」とありますが、これは「出エジプト」前夜の「過越し」のイメージです。神が、ユダヤの家々を通り過ぎてエジプトの家にのみ災いを起こされた出来事です。神が現臨する、神は現れる、そして働かれる、というところにあります。文脈ではイエスが陸地にいて祈っておられたとあります。そして漕ぎ悩んでいる弟子たちに向かって幽霊に見える姿で登場して、通り過ぎるようにして現臨する、現れる。つまり、イエスの祈りというのは弟子たちが漕ぎ悩んでいる、なかなか前進できない、その様に対して執り成しです。イエス・キリストが現臨する、漕ぎ悩む弟子たちへの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という呼びかけによって、イエスの祈りが実体となったという物語です。
 まずイエス・キリストの祈りにおいて執り成しがここにあって、幽霊のように見えるものではなくて、生きたキリストとして、今も、かつてそうであったように「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださるキリストが、わたしたちの生きる根拠の言葉なのだということです。
 確かに、そこにイエスが現れたら幽霊だと思って恐れるのは当然です。しかし、イエス・キリストが通り過ぎる仕方で現れるときにおいて、かつて神を見たら死んでしまうという恐れをモーセは持っていました。そのような意味においてイエス・キリストを恐れるべきです。そして、そのイエス・キリストがかつて語られた「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉は復活のキリストが今生きて教会という場、もしくはわたしたちの知らない場所でさえ働いているのです。今のこととしてイエス・キリストの復活の力が臨んでおられるのだということを、絶えず心に刻むようにとの促しが今日の聖書です。
 今日の記事の直前、おそらく1万人以上の人たちと共に食卓を囲み、お互いの命を喜び合う、あの出来事が決して過去の閉じられた出来事ではなかったように、今日の物語も、今のこととして聴かねばなりません。今漕ぎ悩んでいる舟、そこに所属する一人ひとりが焦りを覚えたり、不安を覚えたり、何故こんなに一生懸命やっても前が見えてこないのか、何故希望が湧いてこないのか、このような中にあって立ち返るべき事柄とは何か。それを証言するために、イエス・キリストは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。

2015年9月20日 (日)

マルコによる福音書 6章34~44節 「飯は天です」

 この物語は、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ」という主イエスの所作から、後の聖餐式の根拠である原型を認めることができます。主イエスを生身の人間として捉えるならば、その主の食事とは、精神的に閉じられた内面的な出来事として読まれるべきではありません。今、ここで飢えている人と分かち合い、共に食べる喜び、空腹が満たされる仕方で、具体的な神の国、神の支配、神の祝福の事実が示されるのです。
 イエスの食事は、出エジプトにおける過去の守りが、再理解されているのです。過去を顧みてこの食事が現在化されているだけではありません。さらに、将来をも射程に入れています。つまり、来るべき世の終わりとの関わりにおいてです。ここに神が働いておられると。今日の聖書には「ぶどう酒」が含まれていません。しかし、「聖餐式」という儀式と無関係であるとは考えにくいです。後のカトリック教会で採用された方式の元の伝承の可能性があるからです。
 イエスの食事は、過去である過ぎ越しと、将来である終末の宴会との信仰理解を踏まえつつ、それがイエスという方において今、実現されているとことです。その今という時間に満ち満ちていることを主イエスは身をもって表現するのです。しかも、そこでは、主の招き以外に参加者の条件がありません。主イエスの食卓には、当時の罪人、徴税人などが招かれていましたから、実質参加者には条件がないのです。したがって、主の食事たる「聖餐式」とは、本来そのようなものであったはずです。誰もが、主イエスの名前において、過去と将来における神の恵みを具体的に、満ち満ちる今という時において共に味わうものだったのです。
 金芝河(キム ジハ)による次の詩は、主イエスに適っています。すなわち、【飯は天なのです。/空を一人で独占できないように/飯は分かち合って食べるのも/飯は天なのです。/空の星をみんなが見るように/飯は一緒に食べるもの/飯を口にすることは/天を体の中に迎え入れること/飯は天なのです。/ああ 飯は/みんなが分かち合って食べるもの。】
 イエスの示された食事の方向性との共鳴がここにはあります。その人の意味や価値を判断する材料が解体されつつ、過去の生命も将来の生命も現在の生命も付加価値なしに祝福する主イエス・キリストの神の恵みが、すべて明らかにされる日が確実にやってくる。この約束において、わたしたちは、できることを、主の相応しさを模索しながら、の教会形成を続けていくのです。
 誰もかれもが資格とか条件が一切取り払われた状態で共に十分に食べ喜び合える現実、そのイエスの食卓への招きに対して応えていく道は、全ての人が、というところに向かっていく途上にある教会の使命であり、その伝道の中身が問われているのではないでしょうか?

2015年9月13日 (日)

詩篇 92:1~16 「白髪になってもなお実を結び」

 今日の詩編は基本的には賛美の歌というものです。ここにあるのは、神に逆らうものが滅びて、神に従うものは祝福されるという、そういう物語です。歳を老いていくところに恵みがある。この世の価値判断とは相反する理解があるのです。13節に「神に従う人」とありますが「義人」ということです。「なつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえ」る、それは「主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。」とあります。神との関係において歳を重ねていく一人ひとりにとっては、「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」ていくと。
 つまり、歳を重ねていく、この世の価値観では、それが好ましくない、嫌悪の対象であるけれども詩編の作者は、神に結ばれて在るときには、歳を重ね「白髪になってもなお実を結」ぶ、そして「命に溢れ、いきいきと」すると述べるのです。これをどういう風に読むのか。この世的な感覚からすれば、老いていけば、色んな能力が剥ぎ取られていく、衰えていく、だからダメなんだ、ではなくて、実は逆説的に、余計なものが削ぎ落とされて、より純粋な、非常にシンプルな信仰になっていく、から良いのだと。
 わたしたちは、あれができるとか、これを持っているとか、そういうもので自分に価値を与えているのですが、そうではなくて、そんなものが削られていく、そうした時に核となるような信仰が大切なのです。自分は何も出来ない、何も持ってはいないのだ、というところにこそ「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」ということが起こってくる。
 歳を重ねていく時に、今この世に神によって貸し与えられたいのちが存在しているという事実、それだけですでに神によって祝福されている存在なんだということを感謝をもって受け止めさえすれば、それでよいのだ、ということです。そして、そこに寄り添おうとする比較的若い者たちは、できるとか持っているという価値観を、全部捨て去ることは困難かもしれませんが、少なくとも相対化することによって、同じ持たざる者、神の側からすれば無に等しい者として同列に立ち、お互いの命を尊敬しあいながら、「世話」をする、配慮を持って接するということが起こりうるということです。
 しばしば、お見舞いに行ったときに、実は励ましにいったのに励まされて帰ってくるという経験をした方は大勢いらっしゃると思います。このような交流が起こるわけです。そういう交流において、わたしたち比較的若い者は高齢者を敬い、高齢者は比較的若いものに自らを委ねて任せていく、ということができればそれで良いのかなあと、高齢者の日にあって思います。

2015年9月 6日 (日)

マルコによる福音書 6章14~29節 「権力に抗して」

 父親のヘロデ大王の死後、息子たちにかつての支配地が分割されます。ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤとペレアの領主となりました。領地内でイエスの名が知れ渡ったとありますから、弟子たちの活動の拡大によって、イエスの名前が聞こえてきたということでしょう。ヘロデ・アンティパスは、自分が首をはねたヨハネが生き返ったのだと思います。ここで、ヨハネが首をはねられた出来事が物語の時間の流れを巻き戻して語られます。
 今日の箇所は、イエスが12人を派遣した記事と、その伝道報告を受ける記事に挟まれています。何故この物語がここに挿入されたのか読み取りたいと思います。洗礼者ヨハネの逮捕から処刑の物語はイエスの逮捕と十字架刑へと用意されます。さらには、そこに留まらず、弟子たちの運命も同時に暗示され、そこで、いかなる歩みを選び取っていくのかが示される、という仕組みがあります。暗に弟子たちの派遣の状況が洗礼者ヨハネの境遇とつながっていることを示すものです。この12人の運命のあり方がマルコ13章に記されています。
 マルコ福音書の教会は、この世の権力だけではなく、万人の憎悪の中を生きなければならない宿命にあります。新約聖書学者の大貫隆によれば、マルコ福音書の目的は、次のように要約されます。
 <実現しつつある「神の支配」福音を携えて登場し、悪霊を祓い、病人を癒し、人々をモーセの律法の桎梏から解放しながら、自分自身を救うことはついにできず、十字架の上に果てたイエスこそ、「キリスト」であり、「真に神の子」である!という逆説です。そしてマルコ教会に向かっては、この逆説的信仰を、勇気をもって告白し、万人の憎悪の中を生きよ!というのです>
 キリスト教の2000年の歴史を批判的に顧みるときに、現代の教会にも楽観的な要素は見当たりそうにありません。しかし、インマヌエルのゆえに、孤独ではない、何故なら教会を派遣するのは、生きているキリストが聖霊として働かれているという現実認識によるからです。マルコ福音書13章をキリスト者は、歩まなければならなくなることが、あるかもしれません。一見滅びの道かと思えることが起こってくるかもしれません。しかし、それが信仰の道なのです。だから、今日を感謝しつつ、不安な明日、将来に向かって勇気を持って引き受けていくことができるのです。
 6章12から13節には、次の言葉が記されています「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」。わたしたちは、この世の中へ出かけていき、生き方やものの考え方の方向転換を求め(悔い改め)、民を顧みない権力(悪魔)に抗し、病んでいるこの世を癒していく業に召されていることを確認しておきましょう。ここにキリスト者の使命があります。

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