詩篇 92:1~16 「白髪になってもなお実を結び」
今日の詩編は基本的には賛美の歌というものです。ここにあるのは、神に逆らうものが滅びて、神に従うものは祝福されるという、そういう物語です。歳を老いていくところに恵みがある。この世の価値判断とは相反する理解があるのです。13節に「神に従う人」とありますが「義人」ということです。「なつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえ」る、それは「主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。」とあります。神との関係において歳を重ねていく一人ひとりにとっては、「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」ていくと。
つまり、歳を重ねていく、この世の価値観では、それが好ましくない、嫌悪の対象であるけれども詩編の作者は、神に結ばれて在るときには、歳を重ね「白髪になってもなお実を結」ぶ、そして「命に溢れ、いきいきと」すると述べるのです。これをどういう風に読むのか。この世的な感覚からすれば、老いていけば、色んな能力が剥ぎ取られていく、衰えていく、だからダメなんだ、ではなくて、実は逆説的に、余計なものが削ぎ落とされて、より純粋な、非常にシンプルな信仰になっていく、から良いのだと。
わたしたちは、あれができるとか、これを持っているとか、そういうもので自分に価値を与えているのですが、そうではなくて、そんなものが削られていく、そうした時に核となるような信仰が大切なのです。自分は何も出来ない、何も持ってはいないのだ、というところにこそ「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」ということが起こってくる。
歳を重ねていく時に、今この世に神によって貸し与えられたいのちが存在しているという事実、それだけですでに神によって祝福されている存在なんだということを感謝をもって受け止めさえすれば、それでよいのだ、ということです。そして、そこに寄り添おうとする比較的若い者たちは、できるとか持っているという価値観を、全部捨て去ることは困難かもしれませんが、少なくとも相対化することによって、同じ持たざる者、神の側からすれば無に等しい者として同列に立ち、お互いの命を尊敬しあいながら、「世話」をする、配慮を持って接するということが起こりうるということです。
しばしば、お見舞いに行ったときに、実は励ましにいったのに励まされて帰ってくるという経験をした方は大勢いらっしゃると思います。このような交流が起こるわけです。そういう交流において、わたしたち比較的若い者は高齢者を敬い、高齢者は比較的若いものに自らを委ねて任せていく、ということができればそれで良いのかなあと、高齢者の日にあって思います。
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