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2015年9月20日 (日)

マルコによる福音書 6章34~44節 「飯は天です」

 この物語は、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ」という主イエスの所作から、後の聖餐式の根拠である原型を認めることができます。主イエスを生身の人間として捉えるならば、その主の食事とは、精神的に閉じられた内面的な出来事として読まれるべきではありません。今、ここで飢えている人と分かち合い、共に食べる喜び、空腹が満たされる仕方で、具体的な神の国、神の支配、神の祝福の事実が示されるのです。
 イエスの食事は、出エジプトにおける過去の守りが、再理解されているのです。過去を顧みてこの食事が現在化されているだけではありません。さらに、将来をも射程に入れています。つまり、来るべき世の終わりとの関わりにおいてです。ここに神が働いておられると。今日の聖書には「ぶどう酒」が含まれていません。しかし、「聖餐式」という儀式と無関係であるとは考えにくいです。後のカトリック教会で採用された方式の元の伝承の可能性があるからです。
 イエスの食事は、過去である過ぎ越しと、将来である終末の宴会との信仰理解を踏まえつつ、それがイエスという方において今、実現されているとことです。その今という時間に満ち満ちていることを主イエスは身をもって表現するのです。しかも、そこでは、主の招き以外に参加者の条件がありません。主イエスの食卓には、当時の罪人、徴税人などが招かれていましたから、実質参加者には条件がないのです。したがって、主の食事たる「聖餐式」とは、本来そのようなものであったはずです。誰もが、主イエスの名前において、過去と将来における神の恵みを具体的に、満ち満ちる今という時において共に味わうものだったのです。
 金芝河(キム ジハ)による次の詩は、主イエスに適っています。すなわち、【飯は天なのです。/空を一人で独占できないように/飯は分かち合って食べるのも/飯は天なのです。/空の星をみんなが見るように/飯は一緒に食べるもの/飯を口にすることは/天を体の中に迎え入れること/飯は天なのです。/ああ 飯は/みんなが分かち合って食べるもの。】
 イエスの示された食事の方向性との共鳴がここにはあります。その人の意味や価値を判断する材料が解体されつつ、過去の生命も将来の生命も現在の生命も付加価値なしに祝福する主イエス・キリストの神の恵みが、すべて明らかにされる日が確実にやってくる。この約束において、わたしたちは、できることを、主の相応しさを模索しながら、の教会形成を続けていくのです。
 誰もかれもが資格とか条件が一切取り払われた状態で共に十分に食べ喜び合える現実、そのイエスの食卓への招きに対して応えていく道は、全ての人が、というところに向かっていく途上にある教会の使命であり、その伝道の中身が問われているのではないでしょうか?

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