マルコによる福音書 6章b~13節 「ほんとうに頼るべきは」
イエスは12人の派遣にあたって厳しい命令を与えます。8節から9節の命令です。「パン」「袋」「金」を放棄し「下着は二枚着てはならない」というのです。持っていいものは(マルコの場合)杖一本と履物だけです。旅の最低限の必需品です。旅するために歩く、これは欠かせないということで、履物自体よりも歩きながら、というところに重点がありそうです。
詩編23には羊飼いとしての神が羊であるイスラエルの民に対して鞭と杖をもって臨んでおり、「それがわたしを力づける」とあります。鞭と杖は羊があっちこっちに行かないように正しく導くための道具であると同時に、羊を守り、助ける道具でした。守りの象徴として理解するのが相応しいでしょう。また、イスラエルの民を導くモーセが手にしていたのも羊飼いの杖であったことも思い出します。
このような伝統を踏まえると、12人という宣教者は余計なものを所有せず、最低限の履物と杖を頼りにしてさえいれば大丈夫なのだというところにこそ、教会の存在と生き方が表わされているということです。であるならば、この杖とは、イエスの権威における命令によって12人に備えられた信仰という杖なのです。
すなわち、教会の宣教と存在にとって基本の「き」とは、イエスご自身によって各自に備えられている一本の杖としての信仰、それだけで十分だ、という宣言がここにはあるのです。しかも、杖は一本ずつオーダーメイドです。長さ、堅さ、柔らかさ、重さ、そのバランスが一人ひとりに最も相応しい形で手渡されるのです。
わたしたちは、高度消費生活の中で物や金という価値観の奴隷となっている側面を否定することができません。物や金なしに生活が成り立たないのも事実です。しかし、まず決して忘れてはならないのは、杖一本で旅をするように、イエス・キリストご自身にのみ望みを置き、頼る生き方以外には、キリスト者の生き方はあり得ないということなのです。このことを極端で大胆な言い方で今日の聖書は告げているのです。
この点を忘れることがないなら、どんな物や金の誘惑にあっても教会は教会として、この世を旅することが赦されているのです。キリスト者は主体的な判断をこの世においてなしていく証しの生涯に召されています。自立した生き方へと召されています。自分の力や物、財産によって自分が自分となり、教会が教会となることはできないのです。ほんとうに頼るべき杖としてのイエス・キリストの支えによってのみ自立できるのがキリスト者の<いのち>なのです。
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