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2015年8月

2015年8月30日 (日)

マルコによる福音書 6章b~13節 「ほんとうに頼るべきは」

 イエスは12人の派遣にあたって厳しい命令を与えます。8節から9節の命令です。「パン」「袋」「金」を放棄し「下着は二枚着てはならない」というのです。持っていいものは(マルコの場合)杖一本と履物だけです。旅の最低限の必需品です。旅するために歩く、これは欠かせないということで、履物自体よりも歩きながら、というところに重点がありそうです。
 詩編23には羊飼いとしての神が羊であるイスラエルの民に対して鞭と杖をもって臨んでおり、「それがわたしを力づける」とあります。鞭と杖は羊があっちこっちに行かないように正しく導くための道具であると同時に、羊を守り、助ける道具でした。守りの象徴として理解するのが相応しいでしょう。また、イスラエルの民を導くモーセが手にしていたのも羊飼いの杖であったことも思い出します。
 このような伝統を踏まえると、12人という宣教者は余計なものを所有せず、最低限の履物と杖を頼りにしてさえいれば大丈夫なのだというところにこそ、教会の存在と生き方が表わされているということです。であるならば、この杖とは、イエスの権威における命令によって12人に備えられた信仰という杖なのです。
 すなわち、教会の宣教と存在にとって基本の「き」とは、イエスご自身によって各自に備えられている一本の杖としての信仰、それだけで十分だ、という宣言がここにはあるのです。しかも、杖は一本ずつオーダーメイドです。長さ、堅さ、柔らかさ、重さ、そのバランスが一人ひとりに最も相応しい形で手渡されるのです。
 わたしたちは、高度消費生活の中で物や金という価値観の奴隷となっている側面を否定することができません。物や金なしに生活が成り立たないのも事実です。しかし、まず決して忘れてはならないのは、杖一本で旅をするように、イエス・キリストご自身にのみ望みを置き、頼る生き方以外には、キリスト者の生き方はあり得ないということなのです。このことを極端で大胆な言い方で今日の聖書は告げているのです。
 この点を忘れることがないなら、どんな物や金の誘惑にあっても教会は教会として、この世を旅することが赦されているのです。キリスト者は主体的な判断をこの世においてなしていく証しの生涯に召されています。自立した生き方へと召されています。自分の力や物、財産によって自分が自分となり、教会が教会となることはできないのです。ほんとうに頼るべき杖としてのイエス・キリストの支えによってのみ自立できるのがキリスト者の<いのち>なのです。

2015年8月23日 (日)

マルコによる福音書 6章1~6節a 「家族を相対化する」

 イエスは郷里では真価が発揮できなかった、という衝撃的な記事です。しかし、ある意味当然の展開とも言えるでしょう。近しい人々であるからこそ、イエスのことがわからないのです。そして、イエスを信じることなしに奇跡はほとんど行われません。
 わたしたちはしばしば、血縁というものを、関係を測る物差しとします。○○家の誰々だ、で済ましてしまう。しかし、イエスのあり方は、血縁という物差しでは測りえない様な「家族観」というものを提示します。誤解を恐れずに言えば、「家族」を解体していくことによって新たな関係性を形成していくということです。
 イエス・キリスト、その方が示そうとしているのは、今ある家族観というものを絶対視しない、相対化しながら見ていくということです。人が自分自身になろうとする時、身近な人々がその障害になることが少なからずある、ということをまず理解したいと思います。
 芹沢俊介の家族論の著作の一つである『もう一度親子になりたい』から引用します。芹沢は家庭養護促進協会大阪事務所の発行する事例集から、里親から里子への「真実告知」におけるポイントを三つにまとめ、説明を加えています。

【①私たちは、血のつながりはないけれど、親子なのだ。②私たちは、あなたを選んだのだ。他の誰でもなく、あなたが気に入って、あなただから家族に受け入れたかった。③私たちは、あなたに出会えてうれしかったし、あなたを受け入れられて満足している。】

 実の親子でないという否定的な側面を強調せず、条件付なしの受容によって開かれる新しい「家族像」が示されるのです。
 里親の「真実告知」によって開かれる関係性とイエスの開こうとした関係性には共鳴があると気づかされます。新しく関係を作り出すことによって、豊かな関係を紡いでいく方向性です。前もって「分かっている」ところからはイエスをキリストとして認識する道は閉ざされているということです。一切の条件なしに、あなたが好き、あなたなしには考えられない、ということのみが、わたしとあなた(たち)という関係性を開いていくのです。
 本日のテキストは、逆説的に、わたしたちの家族や教会という人間の関係性を捉え直していく方向性を示しているのではないでしょうか。イエスによって家族に代表される人間関係を理解する道は、絶えず新しく出会ってくださっている、イエス自身の呼びかけられている言葉への気づきから始まるのだということを確認しておきましょう。

2015年8月16日 (日)

マタイによる福音書 15章21~36節 「信仰とは」 黒澤 誠一

 私の信仰には、時々私の心に語りかける障害物があります。私にとって最大の障害物は「進化論」でした。かつて、角田先生に縄文時代の化石の話等、多くのことを聞かせてもらいました。また一度、角田先生と三ツ沢貝塚へシャベルとスコップを持って化石を掘りに行きました。その時は、三ツ沢貝塚も大半に住宅が立ち、空き地を探すのも困難な状態でした。角田先生は、勝手知った態度で少し凹んだ崖に行き掘り始めました。どう見ても掘り返すのは無理な様な場所でしたが、先生は気にも留めず掘り進んでいきました。私も積極的に土を掘り返しました。2時間から2時間半程掘って小さな土器片5個と直径5~6cmの巻貝1個(これは完品でした)、巻貝の中心部だけの物1個、トータル7個の収穫でした。その帰り、三ツ沢の先生のお姉さんの家に寄り、冷えた西瓜をごちそうになりました。疲れた体と乾いた喉には最高のひと時でした。今でも角田先生というとその時のことが思い出されます。角田先生記念会の折り頂戴した『神・仏・人』の本もぼちぼち読んでおりますが、日本人の古来からの信仰と習性の考察と検証をもって書かれていました。
 私には角田先生が科学は科学として尊重し、宗教は科学と同一の立場に置かず、それを越える立場に置いてキリスト教を信じる信仰に、絶対なる確信を置いて居られました。そして、社会に対して反市民権的な動きが国家地方で行われた場合、身を挺して活動していました。また、政治にも関心を持って行動して居られました。私は、角田先生に信仰と科学、進化論の調和はどのようにして居られるのか聞いてみたかったです。
 もう一つ大きな問題は、聖書の中の天地創造と現在の宇宙科学で最も多くの人々に信じられているビッグバン理論であります。ビッグバンは最初はエネルギーの集約点というのが一つあって、それが10のマイナス何十乗分の一くらいの秒の間わっと爆発する。その間に軽い粒子ができてそれから色々なものができ上っていくと考えられています。
 地球の出来る過程には多くの偶然が重なり、その偶然性は何億分の一にも相当する数字であり、その背後には神の意思が感じられるという科学者も居るそうです。ビッグバンの働きにも神の意思があるのではないかと。
 マタイ15:21-28カナンの女の信仰にはイスラエル族に属さない人々でもイエス様への強い信仰さえあれば神は必ず私達を顧みてくださる。カナンの女もイエス様を神と信じる強い信仰を持ってイエス様に向かい、娘の病気を癒して頂いた。ここに信仰の素晴らしさを感じることができます。

2015年8月 9日 (日)

マルコによる福音書 5章21~43節 「確かな信頼が大切です」

 ヤイロの娘の死の物語と出血の女性の物語です。病と死の現実に対してのイエスの振る舞いと言葉から、それらの価値観を根底からひっくり返すイエスの価値観が示されているのではないでしょうか?
 ここに共通しているのは「ひれ伏す」という全幅の信頼の大切さです。そして、その信頼に対して、出血の女性に対しては自らが穢れを身に受けることで穢れ事態を無化し、ヤイロの娘については、死という現実を眠りとして理解させます。そして、それぞれ「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」「タリタ、クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」と声をかけます。このように当時の神観念をひっくり返すことにより、つまり、イエス・キリストの視点から見つめ直すことにより、病も死も、その現実が今や乗り越えられていることが示されているのです。
 わたしたちも、今日の聖書により、この物語に共に巻き込まれてしまっていることを確認することができるのではないでしょうか?病と死とは、わたしたちの生涯にまとわりつく蔦のように感じられることがないでしょうか?わたしたちの誰一人として例外なく、死を迎えます。また、死に至るまでに病が関わってくる可能性も否定できません。
 しかし、このようなわたしたちもイエス・キリストの振る舞いと言葉によって、この世にあっても神のもとに召されるにあたっても、安心と平安が備えられていることに気づき、感謝をささげることができるのです。かの人たちがそうであったように、ひれ伏すようにして、確かな信頼のもとにです。既に、イエス・キリストは前もって受け入れてくださっているのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という言葉は、この世の価値観や別の神々によって強いられている、わたしたちの苦悩の現実がすでに乗り越えられた事実として、今日のこととして届けられている言葉なのです。ここに救いの確かさの事実が示されています。救いとは、その場しのぎの事柄ではなくて,その人の丸ごとがイエス・キリストによって正面から受け止められることで良しとされている現実のことです。どのような律法や人々の価値観からも自由とされている現実のことです。イエス・キリストと結ばれて、今ある姿のままで、全くの条件なしに全存在が祝福されてしまっているという現実のことです。
 奇跡物語は、そのまま信じる原理主義からも、あり得ないという懐疑主義からも自由に聞かれるべき神の言葉であることを、共に確認しつつ感謝の祈りをささげましょう。病と死とを乗り越えるところにこそ、イエス・キリストの命に与る道が備えられているのです。

2015年8月 2日 (日)

マタイによる福音書 5章13~16節 「信仰告白の事態」

 わたしたちは今日、平和聖日において「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」という言葉、「第二次大戦下の日本基督教団の責任についての告白」を聞きました。戦時下に成立した日本基督教団のこれまでの歩みから、教団の諸教会は「世の光」「地の塩」であったとは、お世辞にも言えない状況を知ることができます。しかし、聖書によれば「あなたがたは」「である」と断言されてしまっていることに驚きと厳粛さを覚えます。あなたがたと呼ばれる世々の諸教会の惨めな姿が、わたしたちとして「である」というのです。有無を言わせぬ響きがここにはあります。地を味付け、より豊かにならしめて行く働きが教会には、既に与えられてしまってあり、それこそがあなた方なのだ、というのです。また、同じように「世の光」「である」として、この世を照らす働きが既に与えられてしまっている、というのです。「光」といっても、当時のランプは器に油を入れて灯芯を差し込んだくらいの、みすぼらしく、弱々しい光しか放つことができないものだったでしょう。
 この広い世界にあって、たとえ一つまみの塩でしかなくても、全世界を照らすほどの輝きがなくても、「である」という主イエスの言葉によって新しい可能性に拓かれていくでしょう。
 どのような決断をなすべきかと判断する前に、「である」という言葉によって、わたしたちは主イエスが十字架へと向かわれた道に連なるようにされてしまっていることに気が付くようにと、「地の塩」「である」と宣言されて、呼びかけられているのです。だから、「あなたがた」と呼ばれるわたしたちは、一つまみの塩、弱々しい灯火として、すでに国家に代表される権力体系に関わりが与えられてしまっているのです。わたしたちのできることは、わずかかもしれません。しかし、主イエスに倣い、祈りつつ、地球規模でものを考えつつ、自分の身の回りで、働いていくことはまだまだたくさんあります。
 このような意味において「戦責告白」の示す方向性は、いよいよ今のこととしてわたしたちに迫ってくるのです。このような生き方への招きが「あなたがたは地の塩である。」という言葉と「あなたがたは世の光である。」という言葉なのです。この言葉によって「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」という出来事へとわたしたちたちが招かれていることを信じ、祈りましょう。

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