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2015年8月23日 (日)

マルコによる福音書 6章1~6節a 「家族を相対化する」

 イエスは郷里では真価が発揮できなかった、という衝撃的な記事です。しかし、ある意味当然の展開とも言えるでしょう。近しい人々であるからこそ、イエスのことがわからないのです。そして、イエスを信じることなしに奇跡はほとんど行われません。
 わたしたちはしばしば、血縁というものを、関係を測る物差しとします。○○家の誰々だ、で済ましてしまう。しかし、イエスのあり方は、血縁という物差しでは測りえない様な「家族観」というものを提示します。誤解を恐れずに言えば、「家族」を解体していくことによって新たな関係性を形成していくということです。
 イエス・キリスト、その方が示そうとしているのは、今ある家族観というものを絶対視しない、相対化しながら見ていくということです。人が自分自身になろうとする時、身近な人々がその障害になることが少なからずある、ということをまず理解したいと思います。
 芹沢俊介の家族論の著作の一つである『もう一度親子になりたい』から引用します。芹沢は家庭養護促進協会大阪事務所の発行する事例集から、里親から里子への「真実告知」におけるポイントを三つにまとめ、説明を加えています。

【①私たちは、血のつながりはないけれど、親子なのだ。②私たちは、あなたを選んだのだ。他の誰でもなく、あなたが気に入って、あなただから家族に受け入れたかった。③私たちは、あなたに出会えてうれしかったし、あなたを受け入れられて満足している。】

 実の親子でないという否定的な側面を強調せず、条件付なしの受容によって開かれる新しい「家族像」が示されるのです。
 里親の「真実告知」によって開かれる関係性とイエスの開こうとした関係性には共鳴があると気づかされます。新しく関係を作り出すことによって、豊かな関係を紡いでいく方向性です。前もって「分かっている」ところからはイエスをキリストとして認識する道は閉ざされているということです。一切の条件なしに、あなたが好き、あなたなしには考えられない、ということのみが、わたしとあなた(たち)という関係性を開いていくのです。
 本日のテキストは、逆説的に、わたしたちの家族や教会という人間の関係性を捉え直していく方向性を示しているのではないでしょうか。イエスによって家族に代表される人間関係を理解する道は、絶えず新しく出会ってくださっている、イエス自身の呼びかけられている言葉への気づきから始まるのだということを確認しておきましょう。

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