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2015年7月

2015年7月26日 (日)

マルコによる福音書 5章1~20節 「自尊感情の回復」

 この男は墓場に暮らしていたといいます。墓場とは死とか闇を象徴した、いわば不吉で不気味な場所と考えられます。暖かい眼差しを交わしながら暮らす里にいられなくなったことです。人が心を破壊されていくとき、自らであるための抗う行為として暴力的になることが時としてあります。他罰傾向の場合、暴力が他者に向かいますが、この男の場合、自罰傾向が強くて自らを責めたてたのです。
 この男の心が破壊されている状況とは一言で言えば、疎外です。この姿を読むとき、何とも言えない切なさや悲しみを感じます。この男の呻きや辛さが我がこととして心の中で共鳴してくるのです。この男の置かれた状況は古代パレスチナの限定されたものではなく、極めて現代的な課題を表わしていることが読み取れます。「自尊感情(自分が大切な存在であると確かに思えること)」が剥奪された状態です。古代と同様、現代も、人の<いのち>や自尊感情を押し殺そうとする風潮や圧力は、日に日に増し続け、息をすることすら厳しくなりつつあるのではないでしょうか?自分が大切であるという実感がなければ他者の存在を大切に思うこともできません。自分の<いのち>が傷つけられ痛めつけられていることによって消耗し、その先に見え隠れする<死>の誘惑あるいは他者への攻撃。
 この物語を踏まえ、マルコの示す教会像、それは、伝道する教会とは、イエスを証しする活動とは、その地域の課題の只中でなされるということです。かつては、教会は内面性に集中すべきで、社会的な活動は、中心ではない、と考えられていました。あるいは、教会は、内側だけではなくて、教会の外側にも関心をもちましょう、などという人たちも昔はいました。今もいるのかもしれません。
 そうでは、ありません。神奉仕としての礼拝と社会のために存在することは、ちょうどコインの両面のようなものだと、少なくとも同時であるとレギオンという悪霊を祓われた人の証しは主張しているのです。
 イエス・キリストは疎外を克服する出来事であり、生き方です。克服への促しであり、導きです。教会は、イエスとの出会いによって、このゲラサでの癒された人の証しに絶えず立ち返ることによって、イエスの教えを固定化させず、教会が現在の課題を福音から解釈し行動することへと導かれるのではないか、現代の悪霊に立ち向かう道へと導かれるのではないか、そう信じ、祈りましょう。
 自尊感情の回復のための場の提供として様々な可能性を、あんなこともできる、こんなこともできると祈りつつ考え、実践していく教会として歩んでいくことを模索して行くことができることを今日の聖書は可能性を拓く促しとして語りかけているのではないでしょうか?

2015年7月19日 (日)

マルコによる福音書 4章35~41節 「黙れ、静まれ」

 主イエス・キリストは荒れ狂う湖の中で眠っていた、その姿というのは実は、基本的なところで楽観であった方です。わたしたちは嵐のただ中にあってもイエス・キリストと共にいる、という、あのイエス・キリストの楽観に学びながら平安であることができる、この安心感と安堵感、を今のこととして捉えかえすことができるのではないでしょうか。嵐の中にあって静けさを取り戻す、落ち着いているということによって、わたしたちが不安とか怯えの中にあっても安らいでいることができるのだという信頼が問われているのです。
 わたしたちはこの社会の不安定な中で、このまま放っておいたら<いのち>が滅びてしまうのではないかとか、不安、恐れ、狼狽、予期せぬ出来事が起こってきます。今日の状況は、まさにそうです。しかし、そこにおいてこそ、主イエスは近くにおられることを奇跡物語として今日の聖書は喩えとして語っているのです。主イエス・キリストが嵐のただ中において、にもかかわらず静けさ、平安をもたらし、共にいてくださる。舟に乗って寝る仕方で安心の姿を見せてくれている。黙れ、静まれという言葉を湖に語りかけただけではなくて、わたしたちの心の中に起こってくる様々な嵐、恐れや不安に向かってもイエス・キリストの神は今日も、黙れ、静まれと、語りかけてくださっている。その言葉が確かなので、わたしたちは、一人ひとりの不安や恐れ、またこの時代状況のなかにあっても、主イエス・キリストは近くにおられるので、それぞれが負わされた課題を担っていくことができる。このように祈りが深められていく課題に立たされているのです。
 一体この方は誰か、と問います。わたしたちは、十字架の主であり、磔つけられた主であり、よみがえられた主であり、昇天された主であり、天にいて神の右にいます主こそがイエス・キリストであると答えるのです。このことを、今のこととして確認しておきたいと思います。福音書が物語るところによれば、イエスに風や湖も従ったのだから、わたしたちも信じて従っていけば、どのような困難な状況、嵐吹き荒れる状況であっても平安を保ちながら歩んでいくことが赦されてしまっていることが信じられるのです。新たな祈りの中でさらなる前進がすでに用意されており、そこに向かってわたしたちは歩んでいくことが赦されているのです。何故なら、すでに主イエス・キリストの「向こう岸に渡ろう」、という言葉によって、困難な道をさらなる前進によって歩むことが求められているし、促されているからです。今日の聖書の告げるところは、嵐のただ中で危機的な状況に置かれていても克服していく道が備えられているという確信が、主イエス・キリストによって与えられるのだという信仰の告白が時代を越えて共有されるという証言なのです。

2015年7月12日 (日)

マルコによる福音書 4章33~34節 「生き方の中で理解する」

 理解とか了解を示す英単語のサンプルとしてunderstandとrealizeを対比させその違いをヒントにしたいと思います(上田紀行の発想から)。しかし、仕方やレベルが違うのです。understandの場合は頭の中で納得するという感覚で、realizeの場合、よく認識するという意味合いがあって、腑に落ちるとか生き方を通して心から納得するという感覚があります。事柄に対する共鳴が起こり、腑に落ちることが大切なのです。つまり、理解によってことが起こされ、促されるという力ある言葉の質が問われているのです。
 イエスの譬えをrealizeとして読み取る時、イエスの生き方全体、生き方の方向から理解される必要があります。より弱く、小さくされている人の傍に寄り添って生きる、その生き方を理解することが、realizeなのです(讃美歌21・280番等参照)。より小さくされてしまっている<いのち>をこそ尊ぶ生き方です。
 譬え話集としての4章を繰り返して読むと、一粒の<いのち>がそのままで豊かに祝福されてしまっているのだから、安心であれ、平安であれ、という響きが根底にあることに気づかされます。さらに<いのち>に関するイエスの底抜けの楽天性を伴ってです。当時、聞いていた人々も、現代の読者も自分の人間としての価値に対して自己肯定観を持つことができず、他者や権威から<いのち>の価値が脅かされたり、貶められていたのです。イエスは譬えによって<いのち>の尊さやかけがえのなさを取り戻したのです。譬えを語ることによって、その言葉たちは「事を起こし」「事を為す」力が与えられたのです。聞き、また読む人々は新しい第一歩を踏み出す勇気と希望が与えられるのです。このような意味において、イエスの譬えは第一級の人権宣言であるといえるのです(近代以降の様々な「人権宣言」を思い起こしてほしい)。人権宣言によって即差別が無くなるわけではありませんが、将来のあるべき道を示そうとする方向性が示されているのです。
 イエスの譬えによって新しい促しを受けた人々は誰一人として、イエスの招きから逃れることはできません。一粒の惨めさや貧しさがすでに30,60,100の実りの<いのち>に満たされてしまっていること。大きな世界観ではなく、周縁の小さな物語の中で日々の暮らしを着実に、日毎に営む中に神が共にいてくださるということ。人の思いや働きを越えて、すでに育み、守り、導いてくださっている方が確かであるから、きっと大丈夫。譬えの語る世界観の中に招かれてしまっているし、その物語を今度は自ら生きていくことのできる幸い。ここに主イエスの譬えの本質が表わされているのです。

2015年7月 5日 (日)

マルコによる福音書 4章30~32節 「イッツ・ア・スモールワールド?」

 「イッツ・ア・スモールワールド」とは世界中のディズニーパークにあるアトラクションの名前です。テーマ曲の歌詞は次のようなものです。
 【世界中 どこだって/笑いあり 涙あり/みんな それぞれ 助け合う/小さな世界/世界はせまい 世界は同じ/世界はまるい ただひとつ/世界中 だれだって/ほほえめば なかよしさ/みんな 輪になり 手をつなごう/小さな世界/世界はせまい 世界は同じ/世界はまるい ただひとつ】
 しかし、ディズニーパークの描く世界観は、この歌の「世界」をめざす方向性ではなくてアメリカの覇権主義を表わしているものであると、わたしには思われるのです。
 今日の聖書が語るのは、からし種という1ミリ前後の直径の粒が、そのままで「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(4:32)約束があり、これが神の国なのだ、との宣言です。ここで前提とされているのは世界樹という考え方です。その思想は、旧約にも影響を見ることができます(エゼキエル31:3-9、ダニエル4章など参照)。大木である王権が太い幹であり、年輪を増すように権力が増大し、枝や葉が茂るのは、その権力の広がりの勢いを示しているのです。いわば、一本の木によって世界帝国の野望が表現されているのです。
 しかし、イエスは、世界樹の思想ではなく、小さなからし種の成長という世界観、庶民レベルに世界観を取り戻すのです。日々の生活から離れて神の国はない。当たり前の、身近な生活の中にこそ、神の国の発見の可能性が秘められているというのです。覇権主義的な世界観はバビロニアなどの世界樹の思想を支えています。一方、イエスの育ったからしの世界観で生きていこうという「小さな物語」としての世界観は、小さくされている人たちをこそ大切にする方向づけがなされているのです。「イッツ・ア・スモールワールド」で歌われている内実を庶民の側に取り戻すことができるかもしれないのです。今日の説教題の「?」が外されるような世のための教会を目指していきたいと願っています。
 そのためには、「小さな物語」としての一本の芥子の世界観を取り戻すところから始まるのだとイエスが語っているように思われます。つまり、片隅に追いやられている、より弱い立場、小さくされている人たち、この人たちに寄り添うようにして、この世において旅するのがキリスト教会の使命だということです。
 幼い子どもたちや高齢者が喜んで生きられる世界、ハンディキャップのある人が胸を張って生きられる世界、これが「小さな物語」としての神の国なのではないでしょうか?大きな大木に身を寄せる生き方ではなくて、一本のからしの下で生きていく態度にこそ、神の国が示される、このように主イエス・キリストは語りかけているのです。

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