マルコによる福音書 5章1~20節 「自尊感情の回復」
この男は墓場に暮らしていたといいます。墓場とは死とか闇を象徴した、いわば不吉で不気味な場所と考えられます。暖かい眼差しを交わしながら暮らす里にいられなくなったことです。人が心を破壊されていくとき、自らであるための抗う行為として暴力的になることが時としてあります。他罰傾向の場合、暴力が他者に向かいますが、この男の場合、自罰傾向が強くて自らを責めたてたのです。
この男の心が破壊されている状況とは一言で言えば、疎外です。この姿を読むとき、何とも言えない切なさや悲しみを感じます。この男の呻きや辛さが我がこととして心の中で共鳴してくるのです。この男の置かれた状況は古代パレスチナの限定されたものではなく、極めて現代的な課題を表わしていることが読み取れます。「自尊感情(自分が大切な存在であると確かに思えること)」が剥奪された状態です。古代と同様、現代も、人の<いのち>や自尊感情を押し殺そうとする風潮や圧力は、日に日に増し続け、息をすることすら厳しくなりつつあるのではないでしょうか?自分が大切であるという実感がなければ他者の存在を大切に思うこともできません。自分の<いのち>が傷つけられ痛めつけられていることによって消耗し、その先に見え隠れする<死>の誘惑あるいは他者への攻撃。
この物語を踏まえ、マルコの示す教会像、それは、伝道する教会とは、イエスを証しする活動とは、その地域の課題の只中でなされるということです。かつては、教会は内面性に集中すべきで、社会的な活動は、中心ではない、と考えられていました。あるいは、教会は、内側だけではなくて、教会の外側にも関心をもちましょう、などという人たちも昔はいました。今もいるのかもしれません。
そうでは、ありません。神奉仕としての礼拝と社会のために存在することは、ちょうどコインの両面のようなものだと、少なくとも同時であるとレギオンという悪霊を祓われた人の証しは主張しているのです。
イエス・キリストは疎外を克服する出来事であり、生き方です。克服への促しであり、導きです。教会は、イエスとの出会いによって、このゲラサでの癒された人の証しに絶えず立ち返ることによって、イエスの教えを固定化させず、教会が現在の課題を福音から解釈し行動することへと導かれるのではないか、現代の悪霊に立ち向かう道へと導かれるのではないか、そう信じ、祈りましょう。
自尊感情の回復のための場の提供として様々な可能性を、あんなこともできる、こんなこともできると祈りつつ考え、実践していく教会として歩んでいくことを模索して行くことができることを今日の聖書は可能性を拓く促しとして語りかけているのではないでしょうか?
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