マルコによる福音書 4章33~34節 「生き方の中で理解する」
理解とか了解を示す英単語のサンプルとしてunderstandとrealizeを対比させその違いをヒントにしたいと思います(上田紀行の発想から)。しかし、仕方やレベルが違うのです。understandの場合は頭の中で納得するという感覚で、realizeの場合、よく認識するという意味合いがあって、腑に落ちるとか生き方を通して心から納得するという感覚があります。事柄に対する共鳴が起こり、腑に落ちることが大切なのです。つまり、理解によってことが起こされ、促されるという力ある言葉の質が問われているのです。
イエスの譬えをrealizeとして読み取る時、イエスの生き方全体、生き方の方向から理解される必要があります。より弱く、小さくされている人の傍に寄り添って生きる、その生き方を理解することが、realizeなのです(讃美歌21・280番等参照)。より小さくされてしまっている<いのち>をこそ尊ぶ生き方です。
譬え話集としての4章を繰り返して読むと、一粒の<いのち>がそのままで豊かに祝福されてしまっているのだから、安心であれ、平安であれ、という響きが根底にあることに気づかされます。さらに<いのち>に関するイエスの底抜けの楽天性を伴ってです。当時、聞いていた人々も、現代の読者も自分の人間としての価値に対して自己肯定観を持つことができず、他者や権威から<いのち>の価値が脅かされたり、貶められていたのです。イエスは譬えによって<いのち>の尊さやかけがえのなさを取り戻したのです。譬えを語ることによって、その言葉たちは「事を起こし」「事を為す」力が与えられたのです。聞き、また読む人々は新しい第一歩を踏み出す勇気と希望が与えられるのです。このような意味において、イエスの譬えは第一級の人権宣言であるといえるのです(近代以降の様々な「人権宣言」を思い起こしてほしい)。人権宣言によって即差別が無くなるわけではありませんが、将来のあるべき道を示そうとする方向性が示されているのです。
イエスの譬えによって新しい促しを受けた人々は誰一人として、イエスの招きから逃れることはできません。一粒の惨めさや貧しさがすでに30,60,100の実りの<いのち>に満たされてしまっていること。大きな世界観ではなく、周縁の小さな物語の中で日々の暮らしを着実に、日毎に営む中に神が共にいてくださるということ。人の思いや働きを越えて、すでに育み、守り、導いてくださっている方が確かであるから、きっと大丈夫。譬えの語る世界観の中に招かれてしまっているし、その物語を今度は自ら生きていくことのできる幸い。ここに主イエスの譬えの本質が表わされているのです。
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