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2015年6月

2015年6月28日 (日)

マルコによる福音書 4章26~29節 「神の国のユーモア」 

 イエスは農民の暮らしぶりを知っていましたから、農作業の大変さを知らなかったわけがありません。にもかかわらずあえて放っておけばいいのだと言うのです。蒔かれた種に宿った命というものが、土に象徴されるところの神の守り、慈しみの中におかれている時には、すでに祝福されているのだから、放っておいてもぐんぐん育っていくのだ。だから安心だし大丈夫だという楽天性に基づいているのです。
 ポイントは27節の「どうしてそうなるのか、その人は知らない」と28節の「土はひとりでに実を結ばせるのであり」、この二箇所です。今日の聖書は、ユダヤ教の基礎知識のある人を前提にして語っています。神の国の譬えとして語ったと書かれているからです。「神の国」を前提としている人たちということです。収穫とその刈り入れのイメージは、ユダヤ教では終末時、世の終わりまで保留されており、それまでに至る態度を信仰生活において研鑽をつんでいくものだと考えられていました。しかし、イエスの場合、終末時をも含み、先取りされた、満ち満ちた時、充実した<今>こそ、ここに神の国の実現を見出しているのです(ルカ17:20-21、16:19-31参照)。
 神の国は、今ここに、祝福をもって臨んでいるのだというのです。「どうしてそうなるのか、その人は知らない」とあるように、人は神の国の支配においては無力であり、ただただ恵みとして受けるしかないというのです。「土はひとりでに実を結ばせるのであり」とは、土に象徴される一方的な神の力によるのだということです。
 実を結ぶ世界観はユダヤ教では終末時に回復されるエデンの園という楽園のイメージを将来への期待の中で生きていました。しかし、イエスの場合、それは他ならぬ<今>なのだという主張がここにはあります。
 モノを見る仕方や発想を変えるだけで世界が変わってきます。解決困難な問題でも簡単な問題でもそうですが、いわば、頭の中で足踏みをしているようなものです。グルグル回る輪のようなもの、ループから抜け出すには神の国のユーモアというかイエスの基づく底抜けの楽観性に支えられた発想が必要なのではないでしょうか?
 イエスの譬えの無茶ぶりは、毎日額に汗し働き続けている人からすれば「そんなバカな」「何言っているんだよ」というものだったでしょう。そこから「そうかもしれない」と変わっていくような。働かなくても十分生かされ育てられていくものだというのは、野の花・空の烏の話に通じます。あまりに楽観的に過ぎるからです。でも、人の苦労を知る人だからこそ、笑いやユーモアの大切さをイエスは知っていたということでしょう。

2015年6月21日 (日)

マルコによる福音書 4章21~25節 「イエスの発想から学んでみる」

 パウロは見た目で分かる病気を抱え、働きながら地中海沿岸地域を中心に自給伝道を続けました。困難の連続であったことをパウロは告白しつつ、「弱さを誇る」信仰の表明に転じていきます(Ⅱコリ11:23以下)。パウロは自らの弱さを曝け出す自由を知っています。それは、受け止められている自分を受け入れることで、支えられている実感に生きたのです。
 キリスト者は艱難や悩み、困難から救われ切った存在ではありません。そのただ中にあるからこその信仰に生きる者なのです。わたしたちの信じるイエス・キリストは苦しみの道を、しかも十字架への道を歩まれました。信じるわたしたちが安穏な道を歩みたいと願うのは、身勝手であり思い上がっているということができます。
 パウロの状況は、時代と場所は違っていてもマルコ福音書の教会と共鳴するところでもあったと考えられます。マルコと彼の教会の葛藤状況を聖書学者の大貫隆は以下のように言い切っています。【それはあえて一言で言えば、「わたしの名のゆえにすべての人に憎まれる」という生前のイエスの口に入れられた予言(マルコ13:13)に尽くすことができる。すなわち、一方ではユダヤ教徒の、他方では非ユダヤ教徒(異邦人)の二重―この意味で「すべての人」の―憎悪にさらされ、迫害の中におかれている状況である。】
 マルコによる福音書の今日の言葉は、ここに生きるキリスト者の存在はまさに「ともし火」を手にした者として描かれているのです。周辺を仄暗くしか照らすことができない弱々しい光です。風が吹けば消えてしまうようなものです。それでも、キリストにある者は、その「ともし火」を「升の下」や「寝台の下」に隠すことができないというのです。
 「ともし火」とは、キリスト教の偉人や聖人のことではありません。ただイエス・キリストご自身の信仰によって受け入れられていることを認識し、生かされてあることを信じ従う人すべてに当てはまることです。キリストによって名前を呼ばれ招かれている一人ひとりであり、この群れのことです。誰一人として招きから漏れることはありません。
 「ともし火」とは、パウロの言うところの弱いキリストです。その「ともし火」を灯すわたしたちも弱さを隠すことができません。しかし、神の力によって支えられ強められているキリストのゆえに、わたしたちも「ともし火」に支えられる一歩を踏み出していくようにと、今日の聖書は告げているのです。このことを心に刻むようにと23節で「聞く耳のある者は聞きなさい。」と念を押します。大掛かりで大袈裟な光を灯して、ではなくてたとえ微かな「ともし火」であっても灯しながら歩んでいく方向付けがイエスの発想であり、ここにはわたしたちが今、学ぶべき事柄が示されています。

2015年6月14日 (日)

マタイによる福音書 5章43~48節 「敵を愛せますか?」

 当時のユダヤの掟や戒めは、旧約聖書に書かれています。色々なことが書かれていますが、学者の間では、要するに大切なのは「神を愛すことと隣人を愛すこと」だと考えられていました。ここで言う神とは世界中にとっての神ではなく、ユダヤ民族の神ということです。「隣人」というのは、ユダヤ教の掟や戒めを毎日きちんと守っている人たち同士の関係のことを言います。同じ神を信じて、掟と戒めを一緒に守ることができている人たちだけで仲よくしましょう、というのが、旧約聖書の隣人愛です。この「隣人」の中には当然外国人は含まれません。異邦人と呼ばれて軽蔑されていたのです。また、ユダヤ民族であっても、掟や戒めを守れない人たちを罪人と呼んで差別し軽蔑もしていましたし、徴税人など仕事によっても差別や軽蔑があったのです。ですから、隣人愛を強く主張しすぎると、実は誰かを差別・軽蔑し、自分たちの仲間ではないと見做されている人たちを敵として憎むことが含まれてくるのです。直接「敵を憎め」とは書かれていませんが、内包していたのです。
 そのような「隣人愛」が大事とされる時代にあって、イエスは、敵を愛しなさいと言いました。これは、自分たちだけに神の愛が向けられているという自惚れを捨てなさいということです。イエスの活動は「義人を招くためではなく、罪人を招くため」であったとされます。つまり、自分たちは旧約聖書の掟や戒めを守っている正しい人だから神に愛されていて、そのように愛されている人同士で仲間意識をもっているけれども、それは間違っているということを語っているのです。イエスは、「隣人愛」から外された罪人と呼ばれる人たちの<いのち>が尊くてかけがえがなくて大切なのだと語り、友となり仲間になったのです。ユダヤの隣人愛という枠を乗り越え、突き破っていったのです。
 隣人愛を支える憎しみの働きに疑問符を与えることで、立ち止まって考え直すことを求めているのです。愛するという言葉は、親しい仲間や友だち同士の間で通用する、好きという感情ではありません。本田哲郎神父は「愛する」の代わりに「大切にする」という言葉を使います。
 大切にされていること、尊重されていることを支えているのは、見捨てられていないということです。差別され、見捨てられている人の友だちになり、仲間となった人こそがイエス・キリストだと信じているからです。
 その人がどのような状態であっても決して見捨てられていないことをまず「わたし」が受け入れ、それをその相手に伝えていくこと、それが「敵を愛する」ことです。敵を愛せますか?

2015年6月 7日 (日)

マルコ4:10-20「教会の溜息を克服する」

 マルコ福音書冒頭の「神の子イエス・キリスト」という言葉は、宗教的にも政治的にも中立的ではなく論争的な言葉です。ユダヤ教からすれば明らかに冒涜の言葉で、ローマからすれば皇帝の権威を認めないと宣言する言葉、そう受け止められて当然なのです。ゆえにイエスをキリストと告白する信仰、さらに、そのキリストが十字架に磔られ、さらにはよみがえったとする信仰は、この世への闘争的な言葉なのです。
 マルコ福音書が書かれた時代は(諸説あるが)、第1次ユダヤ戦争により大きな被害がありました。ローマに破れ、神殿も破壊され、家族や家、財産を失った人々があふれ、根扱ぎにされた難民もあふれます。また、生き方が揺らぎ、戦争への態度の違いなどから家族同士さえ憎み争い、殺し合いへと発展することもあったでしょう。マルコ福音書の教会の宣教の現場は、このように戦争の傷の生々しさと荒れ果てた人々と、その社会です。そういう情況の中、教会はイエス・キリストの福音を宣教しているのです。宣教とは、生前のイエスの生き方に信じて従うことを命じる福音ですから、おそらく主イエスの歩みに自らの教会の歩みを重ね合わせるように祈り解釈されたはずです。溢れる病人を見舞い、治療し、貶められた人々を慰め、餓えた人々に炊き出しを行い、など、主イエスに従う道を模索して歩んでいたはずです。その教会自身、人々と同じ時代を生きている以上、同様に痛み、傷ついていたのでしょう。
 さらには、種を蒔く人はみ言葉である福音を蒔くけれども、土地である人々はしっかりと受け入れてくれないという現実。この現実は、マルコ福音書の教会の苦難を背景にした言葉であり、溜息を表わしています。マルコ福音書の教会は厳しい宣教の現場にいます。「サタンの働き、艱難や迫害、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」と呼ばれる事柄です。それでも、倦むことなく種を蒔き続ける生き方を辞めてはいけない、そうすれば20節の「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」という現実がやってくるに違いない、そう信じていこうというのです。幸運にも教会に残っている人々を「良い土地」と呼んでいるのではない、ずたずたでありながらかろうじて主に従っている現実を述べたものだと思います。現代の教会、わたしたちの現場にも置き換えられることです。
 教会を自己批判的に捉え直しながら伝道するところにこそ、何かしらの新しい気づきや可能性が与えられる。4章2節~9節の、種を蒔くと30倍、60倍、100倍と豊かな実がすでに結ばれているという主イエスの楽天主義に立ち返ること、種蒔きとしての伝道活動を支えていく根拠はそこにあります。

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