マルコによる福音書 4章26~29節 「神の国のユーモア」
イエスは農民の暮らしぶりを知っていましたから、農作業の大変さを知らなかったわけがありません。にもかかわらずあえて放っておけばいいのだと言うのです。蒔かれた種に宿った命というものが、土に象徴されるところの神の守り、慈しみの中におかれている時には、すでに祝福されているのだから、放っておいてもぐんぐん育っていくのだ。だから安心だし大丈夫だという楽天性に基づいているのです。
ポイントは27節の「どうしてそうなるのか、その人は知らない」と28節の「土はひとりでに実を結ばせるのであり」、この二箇所です。今日の聖書は、ユダヤ教の基礎知識のある人を前提にして語っています。神の国の譬えとして語ったと書かれているからです。「神の国」を前提としている人たちということです。収穫とその刈り入れのイメージは、ユダヤ教では終末時、世の終わりまで保留されており、それまでに至る態度を信仰生活において研鑽をつんでいくものだと考えられていました。しかし、イエスの場合、終末時をも含み、先取りされた、満ち満ちた時、充実した<今>こそ、ここに神の国の実現を見出しているのです(ルカ17:20-21、16:19-31参照)。
神の国は、今ここに、祝福をもって臨んでいるのだというのです。「どうしてそうなるのか、その人は知らない」とあるように、人は神の国の支配においては無力であり、ただただ恵みとして受けるしかないというのです。「土はひとりでに実を結ばせるのであり」とは、土に象徴される一方的な神の力によるのだということです。
実を結ぶ世界観はユダヤ教では終末時に回復されるエデンの園という楽園のイメージを将来への期待の中で生きていました。しかし、イエスの場合、それは他ならぬ<今>なのだという主張がここにはあります。
モノを見る仕方や発想を変えるだけで世界が変わってきます。解決困難な問題でも簡単な問題でもそうですが、いわば、頭の中で足踏みをしているようなものです。グルグル回る輪のようなもの、ループから抜け出すには神の国のユーモアというかイエスの基づく底抜けの楽観性に支えられた発想が必要なのではないでしょうか?
イエスの譬えの無茶ぶりは、毎日額に汗し働き続けている人からすれば「そんなバカな」「何言っているんだよ」というものだったでしょう。そこから「そうかもしれない」と変わっていくような。働かなくても十分生かされ育てられていくものだというのは、野の花・空の烏の話に通じます。あまりに楽観的に過ぎるからです。でも、人の苦労を知る人だからこそ、笑いやユーモアの大切さをイエスは知っていたということでしょう。
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