« マルコ4:10-20「教会の溜息を克服する」 | トップページ | マルコによる福音書 4章21~25節 「イエスの発想から学んでみる」 »

2015年6月14日 (日)

マタイによる福音書 5章43~48節 「敵を愛せますか?」

 当時のユダヤの掟や戒めは、旧約聖書に書かれています。色々なことが書かれていますが、学者の間では、要するに大切なのは「神を愛すことと隣人を愛すこと」だと考えられていました。ここで言う神とは世界中にとっての神ではなく、ユダヤ民族の神ということです。「隣人」というのは、ユダヤ教の掟や戒めを毎日きちんと守っている人たち同士の関係のことを言います。同じ神を信じて、掟と戒めを一緒に守ることができている人たちだけで仲よくしましょう、というのが、旧約聖書の隣人愛です。この「隣人」の中には当然外国人は含まれません。異邦人と呼ばれて軽蔑されていたのです。また、ユダヤ民族であっても、掟や戒めを守れない人たちを罪人と呼んで差別し軽蔑もしていましたし、徴税人など仕事によっても差別や軽蔑があったのです。ですから、隣人愛を強く主張しすぎると、実は誰かを差別・軽蔑し、自分たちの仲間ではないと見做されている人たちを敵として憎むことが含まれてくるのです。直接「敵を憎め」とは書かれていませんが、内包していたのです。
 そのような「隣人愛」が大事とされる時代にあって、イエスは、敵を愛しなさいと言いました。これは、自分たちだけに神の愛が向けられているという自惚れを捨てなさいということです。イエスの活動は「義人を招くためではなく、罪人を招くため」であったとされます。つまり、自分たちは旧約聖書の掟や戒めを守っている正しい人だから神に愛されていて、そのように愛されている人同士で仲間意識をもっているけれども、それは間違っているということを語っているのです。イエスは、「隣人愛」から外された罪人と呼ばれる人たちの<いのち>が尊くてかけがえがなくて大切なのだと語り、友となり仲間になったのです。ユダヤの隣人愛という枠を乗り越え、突き破っていったのです。
 隣人愛を支える憎しみの働きに疑問符を与えることで、立ち止まって考え直すことを求めているのです。愛するという言葉は、親しい仲間や友だち同士の間で通用する、好きという感情ではありません。本田哲郎神父は「愛する」の代わりに「大切にする」という言葉を使います。
 大切にされていること、尊重されていることを支えているのは、見捨てられていないということです。差別され、見捨てられている人の友だちになり、仲間となった人こそがイエス・キリストだと信じているからです。
 その人がどのような状態であっても決して見捨てられていないことをまず「わたし」が受け入れ、それをその相手に伝えていくこと、それが「敵を愛する」ことです。敵を愛せますか?

« マルコ4:10-20「教会の溜息を克服する」 | トップページ | マルコによる福音書 4章21~25節 「イエスの発想から学んでみる」 »

マタイによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マタイによる福音書 5章43~48節 「敵を愛せますか?」:

« マルコ4:10-20「教会の溜息を克服する」 | トップページ | マルコによる福音書 4章21~25節 「イエスの発想から学んでみる」 »

無料ブログはココログ